入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (51)

2008-10-30 19:15:47 | 霊学って?
51.
そのように歴史を考察することに対しては、容易に次のような反論が出されるだろう。そのような考察は、歴史から「根源性」や「素朴さ」を奪ってしまうというのである。しかし、それは不当な批判である。上記の考察方法は、「歴史的なもの」を人間本性の最奥まで辿ることによって、歴史に対する見方を深めるのである。それによって、歴史はより豊かに、より具体的になるのであって、貧しくなったり、抽象的になったりするのではない。ただし、歴史を記述するときは、生きた「人間の心」に対する感性と感覚を発達させなければならない。なぜなら、歴史を考察することによって、私たちは人々の心の深みへとまなざしを向けることになるからである。(訳・入間カイ)

51. Man wird leicht gegen eine solche Betrachtung einwenden, daß sie der Geschichte das Elementarische und Naive nimmt; aber man tut damit unrecht. Sie vertieft vielmehr die Anschauung des Geschichtlichen, das sie bis in das Innerste der Menschenwesenheit heinein verfolgt. Geschichte wird dadurch reicher und konkreter, nicht ärmer und abstrakter. Man muß nur in der Darstellung Herz und Sinn für die lebende Menschenseele entwickeln, in die man dadurch tief hineinschaut. (Rudolf Steiner)


歴史というと、
学校の「歴史」の授業を思う人もいるかもしれません。
歴史の教科書とか、歴史小説とか、
どこか私たちの「日常」とは遠いところにあるように
感じられるのではないでしょうか?

前項に引き続いて、この51項では、
私たち一人ひとりの生活、
さらには私たちの心の奥深くと、
人類の歴史は密接につながっていると述べています。

以前にいただいたコメントのなかに、
「心」や「ハート」、「マインド」といった言葉使いについてのご質問がありました。
そこで、ここではこれらの言葉についての僕の考え方と合わせて、
この指導原理の内容を見ていきたいと思います。

この51項の最後の一行には
Herz(英語のheart)とSinn(英語のsense)、
そしてSeele(英語のsoul)という言葉が出てきます。

歴史を語るときは、
「人間の心」に対する「感性」(heart)と「感覚」(sense)が必要だというのです。
この「人間の心」の「心」は
ドイツ語ではSeele、英語ではsoulです。
ソウル・ミュージックというときのソウルです。
魂の叫びとか、
黒人の魂というようなときのソウルなので、
「人間の魂」と訳すことも多くあります。

ただ、ここでは
私たちの通常の、感じたり、考えたりする心の働きが、
そのまま「歴史」とつながっていることを表わすために
「心」という訳し方をしました。

Heartは、心臓や心と訳されますが、
日本語でも「あの人にはハートがある」などといいますよね。
Heart(心臓)は、全身をめぐる血液が集まり、
また送り出される中心部です。
だから、心の温かさや
人の気持ちを思いやる心がheartとして表現されます。
Heartの温かさがあって初めて、
全身の機能が調和して働くことができます。
そのように、人々のハートの温かさによって
社会とか、家庭とかの平和も機能も維持されるわけです。

教科書に記載されているだけのような
歴史上の出来事や人物のことを話すときにも、
ハートが必要だと、シュタイナーはいうわけです。
なぜなら、たとえその人はずいぶんと昔に死んでいて、
今はその人がいつ生きて、何をしたかという「事実」しか分かっていなくても、
その人はかつて、今の私たちのように生きていて、
「私」として感じ、考え、行為していたからです。
そういう人間の《生》に対して、
そしてそこで「私」として精一杯生きた人間の《心》に対して、
歴史を語る者はheartをもっていなければならないというわけです。

さらに、シュタイナーは、
歴史に向き合うときは、
Heartだけではなく、senseも必要だと言っています。
このセンスは「感覚」と訳されますが、
光や色に対する視覚、
音や声に対する聴覚があるように、
「ああ、ここに人間が生きていたのだ」というような、
人間の存在を感じとる感覚があるといえます。
そういう感覚をシュタイナーは
「自我感覚」と呼びました。
この自我感覚は、自分自身の自我ではなく、
自分以外の人々のなかに、
自分と同じ「私」が生きていることを感じとる感覚です。
この自我感覚があるからこそ、
私たちは、他の人々の人生に対しても、
自分の人生と同じように大切なものとして向き合うことができます。
その意味で、
ここでシュタイナーが言っているsenseは、
自我感覚のことだと言えると思います。

ちなみに、
Senseには、「感覚」のほかに、「意味」という意味もあります。
Makes no senseといえば、「意味がない」とか「理屈に合わない」、
つまりナンセンスということになります。
以前、トーキング・ヘッズというバンドのアルバムのタイトルが、
„Stop making sense“だったのを思い出します。
「お利口さんはやめよう」とか
「常識にこだわるのはやめよう」とか、
そんな意味になるのかなと思います。
この意味でのSinnやsenseも、アントロポゾフィーにとって重要な語のひとつです。

歴史上の、
自分とは一見、何の関係もない人物のなかにも、
「たしかにそこに一人の《私》が生きていた」ことを感じ取り、
そのかけがえのない人生に対して温かい感性(ハート)をもって向き合うことで、
私たちは、「歴史」への感覚を発達させていきます。

歴史は、個人を超えた抽象的なものではなく、
一人ひとりの人間のかけがえのない《生》によって、
心の深みから繊細に紡ぎだされていくものなのです。

それはどこか、
「運命」への感覚と共通するものなのです。

というのも、
人生のなかに働く運命もまた、
ただ単に個人の思いを翻弄するものではなく、
生と死の繰り返しのなかで、
「私」は本当に何を目指して生きるのか、
という意志によって、叡智に満ちたしかたで紡がれていくからです。

そのような感じ方、考え方で「歴史」に向き合うとき、
歴史はより豊かで、より具体的なものとして見えてくる。
そのようにシュタイナーは言っているわけです。

そして、Seeleという言葉。
僕は、この言葉を広い意味での人間の感性(心性)として捉えています。
このSeeleを日本語で「心」と訳すときは、
思考、感情、あるいは言語の働きなど、
意識の「機能的」な側面を表そうとしています。

「魂」と訳すときは、意識の「機能」だけではなく、
情動や本能、予感など、表面的な意識では捉えきれない無意識的なもの、
さらには民族や人類にもつらなる
奥深さをもつものとしての「心性」を表そうとしています。

ただ、それが霊性(精神/Geist)と違う点は、
心性(Seele)はどこまでも個人性や主観性に根ざしているということです。
それは個人の心性であれば、
「私の思い」「私の感情」へのこだわりであり、
民族やグループの心性であれば(集合魂ともいいます)、
「われわれの思い」「われわれの主張」へのこだわりとして表出します。
つまり、そこにはつねに「分裂」や「排除」への傾向が必然的に含まれるのです。
ただ、このSeeleがあるからこそ、
私たちは一人ひとりが自分にこだわり、
人生の主人公として生きていくことができます。

霊性(精神)は、
そうした心性を突き抜けて、
永遠なるものや客観性、普遍性に到ったものです。
私自身のなかにも、
心性だけではなく、霊性があります。
それはその時々の感情に揺れる思いではなく、
一生を通じて私の根底にある、
「私は何を目指して生きるのか」という意志であり、
信念のようなものです。
それは私が生まれる前から、
生と死の移り変わりを貫いて存在しています。

一人ひとりの心性は、その人だけのものであり、
私の「感じ方」をそのまま他人に押し付けたり、
共有してもらったりすることはできません。
しかし、霊性は、
他人に共有してもらうことはできないけれど、
「理解」してもらうことはできます。
なぜなら、誰もが「霊性」をもっているからです。
それは「私」ということばが、
誰でも自分を指して「私」というという意味で、
「すべての人によって共有される普遍的な言葉」であると同時に、
自分のことを「私」といえるのは本人だけであるという意味で、
「自分だけが使えるもっとも個別的な言葉」であるのと同じことです。
つまり、人間の「霊性」とは本当の意味での「私」のことなのです。

そして、この「私」(霊性)は、
一人ひとりの人間の心(魂)のなかに生きています。

人間の心へのハートとセンスをもって歴史に向かうとき、
私たちは、
いくつもの時代を貫いて生き続けている
人類の霊性、
「私たち人間は何を目指して、この地球上に生きているのか」
ということを感じ始めるのです。

最後に、やはり「心」と訳される言葉に、
英語のmindがあります。
僕は、このmindは英語特有の言葉で
(辞書を引くと、サンスクリットのmanasやラテン語のmensに由来と書かれていますが)、
ドイツ語のGeistとSeeleをつなぐ意味合いの言葉だと思っています。

マインドには、思考や感情など、
意識の「機能」を表わす意味合いとともに、
Make up your mindというように、
決意や意志を表わす意味合いがあるからです。
自立したマインド、独立したマインドの持ち主というとき、
それは霊性に通じる意味合いを帯びています。

先ほど、ジョン・レノン(John Lennon)の
Mind Gamesという曲を聞いていました。
僕は以前、「アントロポゾフィーはロックだ!」と言ったことがありますが、
特に、ジョン・レノンの歌を聞くと、
アントロポゾフィーの「革命的精神」とのつながりを感じます。

歌詞カードが手元になく、きちんと聞きとれていればですけど、
このMind Gamesも不思議な歌だなあと思いました。

歌詞のなかには「聖杯」が出てきたりしますが、
ジョン・レノンは
「ボクたちは永遠にマインド・ゲームを行っている」といいます。

ゲームという言葉は、
ヘルマン・ヘッセの『ガラス玉遊戯』も想起させますが、
そこに「法則」(ルール)があり、
成功も、失敗もあることを感じさせます。
私たち一人ひとりが人生のなかで、
考え、感じ、迷いながら
人類が永遠に続けるゲームを行っているというのです。
そこで行きつく答えは「愛」(Love)。

ここでジョン・レノンがいうmind gamesは、
かつてシュタイナーが語った「人類の精神作業」そのものだと思います。

僕がこの言葉と最初に出合ったのは、『哲学の謎』のまえがきでした。
私たちが、日々の生活のなかで、
何かに遭遇し、悩み、考えて、
自分なりの決断を下して、一歩を踏み出すとき、
それはとても孤独な作業だけれど、
同じような問題に遭遇した人たちがこれまでもいた。
人類のこれまでの歩みのなかで、
一人ひとりの個人は人生に向き合い、
精一杯考えて、自分なりの答えを見出そうとしてきた。
一人ひとりが自分の足で立ち、孤独に生きながらも、
人類の歩みとのつながりを感じることによって、
自分自身への精神的な力づけを得ること、
それが「哲学」なのだ。
そのようにシュタイナーは言っていると、
当時の僕は感じて、力づけられたのを覚えています。

僕たち一人ひとりが考え、感じ、決意すること、
それを
ジョン・レノンはmind gamesと言ったのだと思います。
それはシュタイナーのいう人類全体の精神作業(geistge Arbeit)に、
つまり人類の霊性につながっているのです。

人類の歴史に対して、
ジョン・レノンの言葉も、
シュタイナーのこの指導原理の言葉も、

私たちの人生のなかの、一人ひとりの心の働きが、
人類の精神活動とつながっていることを伝えているのだと思います。

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1 コメント

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Unknown (shouko)
2008-10-31 16:05:14
ハートからなにかと関わろうとするとき、
必ずどんな出来事の奥底に潜む「愛」に出会えるのでしょうね。

自分の人生が大切なように、
自分以外の人々の人生も、大切。
それは自分が他者の人生を大切にしようとする事ではなく、
自分が大切にしているように、
彼らも同じように彼らの人生がだ大切であることを、
理解すること。これが肝心なのですね。
お節介を焼くことと混同してしまう「隣人愛?・・」。
なにか、私の中ですっきりとしました。
この項を読みながら、カイさんのハートから出る、
暖かさを感じ、心地よくなりました。

たくさん琴線に触れたのですが・・・、
最後に一つ。
私はベートーヴェンのピアノソナタを弾くと、
「ロックだなー・・・」と感じています。
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