入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

シュタイナーの「社会三層化」と市民運動(1)

2007-02-14 22:13:09 | 社会問題
久々にシュタイナーの『社会問題の核心』を原書で読み返した。

先日、鹿児島で川田龍平さんの講演を聞いた。本来なら仕事で鹿児島を離れているはずの日だったが、体調を崩してしまったため、かえって参加することができたのだ。川田さんは12年前、19歳の時に、薬害エイズの被害者として実名を公表し、「東京HIV訴訟」の原告団に加わった。3500人もの人々が厚生省を取り囲み、当時の厚生大臣管直人氏が謝罪したときの映像はいまだに記憶に残っている。僕もあの時、薬害エイズ裁判をたたかう人々につながろうと、厚生省前へ出かけたひとりだった。

講演では、初め、10歳の少年として母親からHIV感染を告知されたときの心境や、辛かった中学時代、感染のことを話してもそれまでと変わりなく付き合い続けてくれた彼女や友人のことなど、薬害エイズの裁判にいたるまでの経過を、本人の言葉で聞くことができた。どうしても責任の所在を明らかにし、製薬会社と国に謝罪してほしかったという言葉からは、改めてその当時の川田さんや母親の思いが伝わってきた。

その川田さんが、今7月の参院選への出馬を決めたという。彼のように否応なく「生と死」を意識しつつ生きている人にとって、大変な決意だったに違いない。講演の後半では、現在の日本の危機的な状況についての彼の考えが語られた。その真摯な姿勢には心から共感しながらも、僕には何かどうしても気になることが残った。それが気になって、結局、夜の交流会にまで出かけて、川田さんに話かけてしまったほどだ。

僕は今も、自分のあのときの感覚が十分に理解できないでいる。その感覚を理解しようとして、また、自分自身はどのように日本の現実の社会に関わっていくのかを問い直そうとして、ふと、シュタイナーが社会運動を始めたときの著作『社会問題の核心』をもう一度読み直してみようかと思ったのである。以下につづるのは、その際に僕が改めて読み取ったこと、そして僕の心に去来したことのノートのようなものである。

『社会問題の核心』は、社会運動の本である。今でいえば「市民運動」の本とも言えるかもしれない。なぜなら、この本では「社会に変化を起こすのは、一人ひとりの個人であり、各人が自分のいる場所で自分にできることを始める」ことが強調されているからだ。

この本が出版されたのは、第一世界大戦後の1919年、日本でいえば大正8年のことである。もちろん、その頃からさまざまな「民主化」の運動はあったけれども、シュタイナーほど一貫して「個」を基盤にしていた人は珍しかったのではないかと思う。「個人主義的アナキスト」を自称していた若い頃の姿勢は、神秘学者・オカルティストになってからも決して変わらなかった。むしろ、徹底した個人主義、アナキズムの基盤のうえに、シュタイナーの人智学(アントロポゾフィー)は展開されていったのである。

今、シュタイナーが大切にしていた「個」の感覚がもっとも生きているのが、さまざまな市民運動なのではないかと僕は思っている。実際、ヨーロッパでは、学校、医療、農業、銀行といった領域でのシュタイナー派の人々の活動は、市民運動として展開されている。そこでは自分たちの活動内容の告知の仕方から、説明会や資金集め、行政とのやり取りに到るまで、一人ひとりの参加者の自発的な参加、対等な話し合いを基盤にして行われている。

これは市民運動としては当たり前のことだ。僕がいま考えたいのは、アントロポゾフィー霊学は、実際に社会を変革する「知恵」となりうるのかということである。そこに、シュタイナーがリベラルな評論家という堅実な立場を捨てて、オカルティズムに到った理由もあるはずである。実際、現在、僕たちが眼にすることのできるアントロポゾフィーの成果は、学校も病院も、治療教育施設も、農場も、銀行も、すべて40歳を過ぎてからのシュタイナーの示唆から発展してきたものだ。コリン・ウィルソンはシュタイナーについての評伝のなかで、「もしシュタイナーが自由の哲学などの初期の著作だけを遺して死んでいたなら、リベラルな思想家としてベルグソンなどと並んで記憶されていたことだろう」というようなことを書いている。確かにそうかもしれないが、その代わり、その思想は実際の社会のなかに実を結ぶこともなかっただろうと思うのだ。

日本でも、シュタイナーに共感する人々は大きく二つのグループに分かれている。シュタイナー教育などの実践面に重点をおき、その背後の世界観、ましてや霊界云々にはあえて触れようとしない人々。そして、逆に霊的側面や世界観・宇宙論に重点をおき、教育や社会実践にはそれほど関心のない人々である。もちろん、自分はどちらにも関心があるとか、全体としてのアントロポゾフィー(人智学)を学んでいるという人もあるだろうけれど、傾向としては、この二つの極のどちらかに傾いているのではないだろうか。

『社会問題の核心』では、霊的世界観や宗教性といったものを現実社会と結びつける試みがなされている。シュタイナーは、「荒廃した社会にあって、今こそ《霊性》が必要だと説く人々と、ひたすら《現実》だけに関わろうとする人々がいるが、その二つが結びつかなければならない」と述べている。なぜなら、シュタイナーにとって、すべての社会現実は霊性の現れに他ならないからである。この本は、眼にみえる実際の社会現象を見据えつつ、そのなかに隠されている《根源的な思想》(霊性)を捉えようとする。すべての現実は、《根源的な思想》が不完全な、もしくは歪められた形で表出したものなのである。

この本は、若い頃のリベラルな評論家シュタイナーではなく、50代のオカルティスト・シュタイナーが、戦後の混乱のなかでやむにやまれぬ思いから書き表したものである。その文体は、オカルティズムの用語などは一切用いず、ひたすら一般の人々に理解されることを目指している。しかし、その内容は、オカルティズムの研究を進めてきたシュタイナーが、社会の現実のなかから読み取った《根源的な思想》を踏まえている。それが「社会有機体の三層化」(三分節)というものである。

シュタイナーの社会論は、当時のプロレタリアの人々と向き合うところから始まる。つまり、資本主義社会のなかで生産力を持たず、自分たちの労働力を資本家に売って生活している賃金労働者たちである。ちょうどロシアでは1917年の10月革命が起こり、ドイツでも社会主義的な政府の樹立を目指してさまざまな運動が起きていた。
今改めて『社会問題の核心』を読み返してみて、シュタイナーが最初の1章をまるごと、このプロレタリアの人々が何を求めているのかという考察に当てていることに気づいた。シュタイナーにとって、「社会問題」の核心とは、そのままプロレタリア運動の本質とは何かということにつながっていたのだ。なぜなら、プロレタリアの人々こそ、人間にふさわしい社会のあり方を問い、時代に対して魂の叫びを発していたからである。

たとえば、今の日本で、そのような魂の叫びを挙げているのは、どういう人々だろうか。格差社会といわれ、いくら働いても貧困から抜け出せないワーキング・プアと呼ばれる人々の存在も指摘されるようになった。年間の自殺者は毎年、3万人を超えている。あまりにも多くの人々が苦しんでいる。でも、そのなかで、「魂の叫び」といえるような意思表示を行っているのは、子どもたちなのではないだろうか。
特に、不登校の子どもたち、そして「ひきこもり」や「ニート」と呼ばれる人々の存在は、現在の日本の社会の現実を考えるうえで非常に重要だと思う。彼らはしばしば「経済問題」と結びつけて論じられることがあるが、実際、彼らは日本の社会に参加することを意識的・無意識的に拒んでいるともいえると思う。もちろん、僕自身も不登校の経験があるので、学校に行きたくても行けない、社会参加をしたくてもできないという葛藤は身をもって知っている。積極的に登校「拒否」や社会参加の「拒否」をしているという実感はないだろう。しかし、いくら自分では学校に行こうと思っても、頭やおなかが痛くなったり、どうしてもだるかったりして、「身体がいうことをきかない」という状態があるのではないか。だとすれば、少なくとも彼らの身体は、現在の日本社会への参加を「拒否」しているといえるのではないだろうか。

そして、この「身体感覚」が重要なのである。なぜシュタイナーが人間の「身体の三層構造」に即して「社会の三層構造」を解き明かしていったかといえば、すべての社会的現実は、人間自身の表出にほかならないからだ。そして、シュタイナーが社会の現実のなかに読み取ろうとした《根源的思想》とは、人間自身の本質なのである。
今、日本の子どもたちの身体が「社会参加」を拒むとすれば、それは社会という身体(有機体)のありようが、人間の身体にふさわしいあり方をしていないからである。

シュタイナーは自分の立場は決して、単に「社会」を「身体」になぞらえるアナロジーではないと強調している。シュタイナーにとって重要なのは、人間の身体を考察することで、「人間の生命が成立するために必要な条件」(das Lebensmögliche)を読み取り、それを参考にして「人間が生きられる社会」、つまり「生きた社会」のありようを考えることだった。そして、シュタイナーが辿りついた「生きた社会の必要条件」が、「社会が三分節されていること」であった。

僕たちが、現在の日本社会に対して、アントロポゾフィーの立場から働きかけていくときは、この「三分節」が基本になるだろう。現在の子どもたちのいじめ、自殺、不登校といった問題に対しては、社会という身体を適切に「分節化」していく努力が必要になるだろう。社会そのものへの働きかけがなければ、いかに「理想的な学校」をつくったとしても、それだけでは解決にならない。なぜなら、子どもたちの身体が拒絶しているのは、学校の先に待ち構えている「社会」なのだから。大人のなかにその社会へのまなざしがなければ、子どもたちの不安は拭い去られることはないだろう。[つづく]

(写真は第一次世界大戦勃発後の1916年のシュタイナー)

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1 コメント

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日本の民族魂・民族霊について (fumik)
2007-07-23 18:37:09
日本の民族魂・民族霊について7月7日に簡単にお話していただきましたが、まだ十分理解できていません。また、先日西川隆範氏の講演会の時に彼にそのことを質問したところ日本の神話や建国についての話をされました。
「えっ?そこから日本の民族魂が導かれるの?そんな内容では戦前の思想に逆戻りする可能性を大きくするだけじゃない?」と感じ、質問しましたが、西川氏自身も十分わかっていらっしゃらない様子でした。もっと、そのことを明らかにしていくことが、現在の日本社会の市民運動の進退に関わることと思いますので、ぜひ、カイさんの見解をもっとわかりやすく説明してください。また、「民族魂」の訳者でもある西川さんともしっかり対話して西川さんのそれ対するお話が暴走しないように食い止めてほしいと思います!!!!!
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