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先日、ミヒャエラ・グレックラーさんの講演録に手を入れていて、ひとつ印象に残ったことを書いておきたい。
それはドイツ語で「体験」と「経験」を意味する erleben と erfahren のことである。
このふたつの言葉は、leben(生きる)とfahren(乗り物などで移動・通過する)という語幹から成っている。いわば「生きる」と「移動・通過する」に強調の前つづりである er をつけると、「体験」や「経験」を意味する言葉になるのである。
グレックラーさんの講演をその場で通訳しているときはそれほど意識しなかったのだが、今回、録音MDを聞きなおしていて、彼女がこの二つの言葉を厳密に使い分けていることに改めて気づいた。
子どもの発達過程における「自己経験」と「自己体験」について語られているところだ(このテーマは『小児科診察室』でも取り上げられている)。
おもに神経系が著しい発達を遂げる幼児期には、感覚の育成や、意味のある身体の動きが重要であるという。純粋な感覚的刺激を受けとり、自分の内発的な欲求のままに主体的に身体を動かしていくなかで、幼い子どもは自分の自己を「経験」する。この自己経験は、自分の「肉体」(物質体)を通して生ずるものなのである。
子どもの発達の次の段階では、おもに呼吸器や血液循環の働きが成熟していく。このときには豊かな感情生活が重要になり、退屈な授業ほど有害なものはないという話が出てくる。そして、自分の生きいきとした感情の働きのなかで、子どもは自己を「体験」するのである。この自己体験は、感情生活、もしくは内面生活が基盤となって生ずるものである。
英語では、体験と経験の両方に experience という言葉が当てられる。
ブロックハウス社の独英辞書で erleben を引くと、experience のほかに、live to see という説明が付いている。Erfahren のほうには find out, hear, learn, come to know が第一の意味として記されている。
Erfahrung (erfahren の名詞)は、経験に基づく知識という意味合いがある。それは客観的なものでもある。
それに対して「体験」( erleben )のほうはより主体的、主観的であり、実感がともなっている。よく霊的修行を積んで、「神秘体験」を得たなどというときに使うのは、erleben である。シュタイナーも、たとえば『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本のなかで、「この本を他の本のようにただ知識を得るために読むのではなく、読むことそれ自体が erleben になるようにしてほしい」と述べている。
体験は、本人の主体的な関わりが前提となっており、それだけに感情が働くことになる。しかし、経験のほうは、かりに本人は無関心だったとしても、肉体がその場にいて、何かに遭遇したとすれば、それは Erfahrung として身につくことになる。
そういう意味で、幼児期の「自己経験」は、自分の肉体に関する物質的な経験であり、きわめて客観的なものだ。そこでは大人が情感をこめて説教するよりも、客観的な行為を示すことで、子どもはそれを模倣し、自分のなかに取り入れていく。
小学校に上がってから(9歳以降)は、子どもは自分の主体性を感情とともに体験する。喜びや悲しみや怒りをはじめ、さまざまな豊かな感情のなかに、自己が実感されるのである。
自然科学の基盤となるのは「経験」である。実証主義による「実験」も、経験の積み重ねである。
「体験」は、一人ひとりの主体性を対象と結びつける。したがって、体験内容は一人ひとり異なってくる。同じ対象をどのように感じるか、体験するか、その内容は一人ひとりの個性によって違うのである。
やや込み入った話になってしまったけれど、一番いいたいことは、ドイツ語では erfahren も、erleben もとても単純な単語であるということだ。
こういうことはドイツ語をかじると、大体ニュアンスとして伝わってくる。そして、「生きる」と「移動する/通過する」の違いが、「体験」と「経験」の違いとして感じられるようになる。
シュタイナー思想を学ぶのにわざわざドイツ語や英語を学ぶ必要はないと僕は思っていた。でも、最近、もし本当に理解したいのなら、ましてやわざわざ「神秘修行」までしてシュタイナー思想に取り組むのであれば、ドイツ語を学ぶことはすごく意味があると思うようになった。ドイツ語はシュタイナーを理解するための高い「ハードル」などではなくて、シュタイナーがどんなに平易な日常的な言葉で自分の思想を語っていたか、しかしそこにとても厳密な思考があるということを直感的に理解する手がかりになる。
シュタイナーのドイツ語はとても明快で、決して仰々しかったり、やたら古風だったりはしない。僕も翻訳や通訳に際しては、分かりやすい訳を心がけようと思うが、もし翻訳でどうしても頭に入らなかったり、世間一般の言葉遣いと違うと感じられたりしたら、それはシュタイナーの問題ではなく、おそらくは翻訳の問題である。
そういうことをこの erfahren と erleben の違いを通して、改めて感じた次第である。
(写真:上は、シュタイナーが設立した最初のヴァルドルフ学校があるシュトゥットガルトのハウスマン街の自然霊[?]。この学校を見学した人はみな印象深くその前を通っていると思う。昔、僕が13歳で半年ほどこの学校に通っていた時も、その後何度かシュトゥットガルトに滞在した時も、しょっちゅうこの奇妙な存在の横を通ったものだ。昨年7月、今も変わらずそこにいるのがうれしくなって撮影した。下はハウスマン街の一画。)
それはドイツ語で「体験」と「経験」を意味する erleben と erfahren のことである。
このふたつの言葉は、leben(生きる)とfahren(乗り物などで移動・通過する)という語幹から成っている。いわば「生きる」と「移動・通過する」に強調の前つづりである er をつけると、「体験」や「経験」を意味する言葉になるのである。
グレックラーさんの講演をその場で通訳しているときはそれほど意識しなかったのだが、今回、録音MDを聞きなおしていて、彼女がこの二つの言葉を厳密に使い分けていることに改めて気づいた。
子どもの発達過程における「自己経験」と「自己体験」について語られているところだ(このテーマは『小児科診察室』でも取り上げられている)。
おもに神経系が著しい発達を遂げる幼児期には、感覚の育成や、意味のある身体の動きが重要であるという。純粋な感覚的刺激を受けとり、自分の内発的な欲求のままに主体的に身体を動かしていくなかで、幼い子どもは自分の自己を「経験」する。この自己経験は、自分の「肉体」(物質体)を通して生ずるものなのである。
子どもの発達の次の段階では、おもに呼吸器や血液循環の働きが成熟していく。このときには豊かな感情生活が重要になり、退屈な授業ほど有害なものはないという話が出てくる。そして、自分の生きいきとした感情の働きのなかで、子どもは自己を「体験」するのである。この自己体験は、感情生活、もしくは内面生活が基盤となって生ずるものである。
英語では、体験と経験の両方に experience という言葉が当てられる。
ブロックハウス社の独英辞書で erleben を引くと、experience のほかに、live to see という説明が付いている。Erfahren のほうには find out, hear, learn, come to know が第一の意味として記されている。
Erfahrung (erfahren の名詞)は、経験に基づく知識という意味合いがある。それは客観的なものでもある。
それに対して「体験」( erleben )のほうはより主体的、主観的であり、実感がともなっている。よく霊的修行を積んで、「神秘体験」を得たなどというときに使うのは、erleben である。シュタイナーも、たとえば『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本のなかで、「この本を他の本のようにただ知識を得るために読むのではなく、読むことそれ自体が erleben になるようにしてほしい」と述べている。
体験は、本人の主体的な関わりが前提となっており、それだけに感情が働くことになる。しかし、経験のほうは、かりに本人は無関心だったとしても、肉体がその場にいて、何かに遭遇したとすれば、それは Erfahrung として身につくことになる。
そういう意味で、幼児期の「自己経験」は、自分の肉体に関する物質的な経験であり、きわめて客観的なものだ。そこでは大人が情感をこめて説教するよりも、客観的な行為を示すことで、子どもはそれを模倣し、自分のなかに取り入れていく。
小学校に上がってから(9歳以降)は、子どもは自分の主体性を感情とともに体験する。喜びや悲しみや怒りをはじめ、さまざまな豊かな感情のなかに、自己が実感されるのである。
自然科学の基盤となるのは「経験」である。実証主義による「実験」も、経験の積み重ねである。
「体験」は、一人ひとりの主体性を対象と結びつける。したがって、体験内容は一人ひとり異なってくる。同じ対象をどのように感じるか、体験するか、その内容は一人ひとりの個性によって違うのである。
やや込み入った話になってしまったけれど、一番いいたいことは、ドイツ語では erfahren も、erleben もとても単純な単語であるということだ。
こういうことはドイツ語をかじると、大体ニュアンスとして伝わってくる。そして、「生きる」と「移動する/通過する」の違いが、「体験」と「経験」の違いとして感じられるようになる。
シュタイナー思想を学ぶのにわざわざドイツ語や英語を学ぶ必要はないと僕は思っていた。でも、最近、もし本当に理解したいのなら、ましてやわざわざ「神秘修行」までしてシュタイナー思想に取り組むのであれば、ドイツ語を学ぶことはすごく意味があると思うようになった。ドイツ語はシュタイナーを理解するための高い「ハードル」などではなくて、シュタイナーがどんなに平易な日常的な言葉で自分の思想を語っていたか、しかしそこにとても厳密な思考があるということを直感的に理解する手がかりになる。
シュタイナーのドイツ語はとても明快で、決して仰々しかったり、やたら古風だったりはしない。僕も翻訳や通訳に際しては、分かりやすい訳を心がけようと思うが、もし翻訳でどうしても頭に入らなかったり、世間一般の言葉遣いと違うと感じられたりしたら、それはシュタイナーの問題ではなく、おそらくは翻訳の問題である。
そういうことをこの erfahren と erleben の違いを通して、改めて感じた次第である。
(写真:上は、シュタイナーが設立した最初のヴァルドルフ学校があるシュトゥットガルトのハウスマン街の自然霊[?]。この学校を見学した人はみな印象深くその前を通っていると思う。昔、僕が13歳で半年ほどこの学校に通っていた時も、その後何度かシュトゥットガルトに滞在した時も、しょっちゅうこの奇妙な存在の横を通ったものだ。昨年7月、今も変わらずそこにいるのがうれしくなって撮影した。下はハウスマン街の一画。)
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昔、日本でシュタイナーの読書会に通っていた頃は、皆さんが話す言葉が形而上的過ぎて理解できなかったものでした。でも、ドイツに行き、教員養成課程に飛び込んでみると、なんだかほんとにあっさりと、ごく普通の言葉で話されていたんだなと。言葉を一つ一つ積み上げていけば、シュタイナーの論理性がスッと入ってきます。
しかし逆にドイツ人学生の中には、シュタイナーの言い回しが理解できないと言う人も多かったのは何故でしょう?
それはひとえに、ことばに対して耳を傾ける姿勢の違いから生まれるのかもしれません。
ドイツ語でシュタイナー思想を理解しようと試みるのは、存外と私達日本人にはとても良い思考訓練になるようです。
アントロポゾフィーの本ではありませんが、自分の研究の一環でドイツ語文献を日本語に訳し始めました。私の中ではまだそれぞれの言語が独立したままなので、両者を文字で繋いでいく試みは、なかなかにシンドイ訓練です。
ありがとうございました。そして、また よろしく です。