スリランカなど、上座部仏教 (南伝仏教) では、
「お釈迦様は、悟りを開き、涅槃に入り、そして消滅した」と考えるみたいだ。
一方、大乗仏教 (北伝仏教) では、
「お釈迦様は、悟りを開き、無余涅槃に入り、今でも姿や名を変え、衆生を救済しておられる」と考える。(東大寺の毘盧遮那仏も、東大寺によれば、お釈迦様の別名)
有余涅槃=涅槃に入っているが、まだ、肉体を有している状態。
無余涅槃=肉体の束縛をも滅した、完全な涅槃のこと。
どっちが正しいか、「出家者の立場からすれば、南伝が正しい。出家者からすれば、お釈迦様は、目標であり、理想であり、師である」。
「一般人からすれば、北伝が正しい。一般人からすれば、お釈迦様は、御本尊であり、拝む対象である。大乗仏教は、在家仏教である」。
もともとは、1つだった仏教が、南伝と北伝に分かれたのだから、考え方に差異があるのは仕方ない。
数年前、NHKか何かの番組で観たのであるが、ネパールのカトマンズだったかを訪ねて行っていた。
様々な、ヒンドゥー教の神々を祀るお堂や、祠を紹介していたが、ほとんど「気を」感じなかった。
が・・・3人の少年たちが、熱心に拝んでいるお堂があり、そこだけは、大きな「気を」感じた。
「ここは、ブッダ・ゴータマを、神としてお祀りするお堂だよ。ヒンドゥー教徒は、他の宗教の神も拝むんだ」と言っていた。(ゴータマ・ブッダじゃなく、ブッダ・ゴータマと言っていた)
「大きな気」を感じたので・・・最終的な意味での正解は、大乗仏教の考え方が正しい。「お釈迦様は、無余涅槃に入った後でも、名や姿を変え、今でも衆生を救済しておられる」。
今は、阿弥陀如来に代わったが、もともと、様々な観音様 (観音様は、種類がたくさんある) の「頭頂仏 (頭のてっぺんに乗っている仏) 」は、
「釈迦如来」だったのである。時代が変遷していくうちに、阿弥陀如来に仏像が変化していったのである。
前述した、不動明王でも、元は、「釈迦如来の眷属」だったのが、時代が変遷するうちに、「大日如来の眷属」に代わって行ったのである。
こういう点は、大乗仏教の「欠点」だと思う。源流がわからなくなるから。
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