うちの家は、真言宗です。
よく、日本では「顕教」と「密教」が比較されるが・・・
アマゾンで買った原始仏典を読みかじると判るが・・お釈迦様の仏教は、「真理」そのものであり、顕教でも密教でも「無い」。
「顕教」や「密教」をはるかに超えたところにある。
お釈迦さまが菩提樹下で悟りを開いた時の内容は・・・
まず「降魔 (ごうま)」・・・内外の「魔」を降し、
宇宙の真理と一体となった。古代バラモン教の言い方だと、「梵我一如 (ぼんがいちにょ)」。
その内容は、アマゾンで買った原始仏典によると、
「六神通」を体得した。六神通とは、
神足通・・・(iddhi-vidha-ñāṇa)自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。
天耳通(dibba-sota-ñāṇa)世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。
他心通(ceto-pariya-ñāṇa)他人の心の中をすべて読み取る力。
宿命通(pubbe-nivāsānussati-ñāṇa)自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。
天眼通(dibba-cakkhu-ñāṇa)一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力。
漏尽通 ( āsavakkhaya-ñāṇa)煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。
例えば、「心が純一で透明で不動の境地に至ると、過去世のすべてを思い出した。一の生涯、10の生涯、万の生涯・・・無始の昔からのあらゆる過去世を思い出した。また、他の人々に目を向けると、彼らの無数の過去世もすべて見えた。そして、人以外の他の生物のあらゆる過去世もすべて見えた。宇宙の成立期、宇宙の破壊期、宇宙の成立破壊期の全ても見えた。(宇宙も転生する)・・・一身にして多身となり、多身にして一身となる。あるいは隠れ、また現れ、水中を進むことも自在であり、空中を飛ぶこと鳥の如し、城壁もなんの障害となることなく、すり抜けられる。手を伸ばして太陽と月に触り、肉身を有したまま、梵天界に到達し、大梵天界を身を持って支配することができる」・・・こういった表現で「悟り」の内容を、お釈迦様が語っておられる。
こういう超絶的な境地に、「密教」や「顕教」の僧侶が過去から現代まで到達した人がいるだろうか? 答えは「否」である。
そういう意味で、お釈迦様の仏教は、「密教」でも「顕教」でもなく、それらを「はるかに超えたところ」にある。
うちは真言宗であり、当然、密教は好きであるが、たまに真言僧の中に、お釈迦様のことを大日如来より下・・・と、見下した表現をする僧侶がいたりする。
しかし、そもそも、大日如来は「真理そのもの」であって「歴史上の人物」ではない。あくまで象徴である。「上」でも「下」でもない。
今の日本は無宗教国に近く、もはや仏教国とは言えない。大乗仏教は、中国・韓国・日本・ベトナムと、惨憺たる状態である。中でも日本は、明治以降、僧侶が「肉食妻帯勝手なるべし」とされ、僧侶は全員「在家坊主」「職業坊主」となり、
お釈迦様のことを見下した表現をする坊主には、
「己の姿をよく見てからモノを言え」と言いたい。涅槃に入られたとは言え、お釈迦様は消滅したワケでは無く、全てを見通しておられる。
話戻して、お釈迦様は、「顕教」も「密教」も、完全に超えた所にいるけど、日本の「顕教」(主に、禅宗寺院の古刹) や、「密教」真言・天台の古刹で、神仏習合しているままの古刹は、「日本の古代の神々が守っておられる」ので、これは、オーラ半端ないです。「カミ」と「ホトケ」の融合した、清浄な気に満ちている。
ではまた。
・・・・・