むしろ活字が無い生活を送る方が難しい
そんな気がします。
と、言うのも、例えばインターネット等をあげれば「ウンザリするほど文字だらけ」だし、テレビをつけるとバラエティ番組では「これでもかというくらいにテロップの嵐で文字放送なんて必要ないんじゃないか?!」と思えるくらいです。
それはさておき何が問題なのかを考えてみると、
読書を教育と結びつける
から話がややこしくなるわけでして、教育と読書を切り離してしまえば何ら憂いる事が無いのです。教育は読書以外の方法がたくさんありますから。
ただ、「本を読む事(読書)は教育する上で一番てっとり早い」事は確かです。
読めない字があれば調べなくてはいけないし、そもそも国語をちゃんと理解していないと読めませんし、(絵本でなければ)書いてある事を頭で想像しなければ著者が何が言いたいのか分からないし・・・と言う事で教育材料(特に情操教育やイメージトレーニング)としてはうってつけなので、本を読め読めという事になるのです。
とりわけ想像力を養う事は非常に大事な事です。
「俳優・女優」「声優」「歌手やシンガーソングライター」などになりたい人は必須項目です。なぜかというと、演じるというのは「(役柄の)登場人物になりきる事」だからです。演技が下手とか上手いというのはイコール「登場人物になりきれているのか(どれだけ登場人物を想像できて振る舞えるか)どうか」です。ここで言う「演技」は「真似」では無い事に注意して下さい。
よく「アニメのアテレコを俳優さんが演じてしっくりこない」事がありますが、大抵それは(その人の)演技自体が下手とか上手いのではなくて
- 俳優は声も含めて体全体で演技をする
- 声優は声だけに一点集中させて演技をする
そういうわけで、俳優さんがアニメのアテレコをすると「演技が薄くなる」し、声優さんが舞台に立つと「声以外に体の動きが加わるので野暮ったくなる」のです。
想像力に勝る物は「体験や経験」です。
悲しいかな、私達は全ての事象に対する体験をするにはあまりにも短い命なのです。100年やそこらでは到底無理でしょう。
しかし、本を読んだりやテレビを見たりして「"想像力で補いながら"疑似体験(バーチャルリアリティ)」で自分にはできない"何か"を楽しむ事ができるのです。
逆に言うと「想像力が無い」=「人生の半分くらい楽しめていない」かもしれません。
別に想像力が無くても仕事ができるし、俳優や声優になろうとは思っていないもん
と思われる方もいるかもしれませんが、たとえ「単純作業の仕事」でも想像力や体験を持つ人と、そうでは無い人では能力的にかなり違います。
仕事は「効率」や「能力」を求められます。「どうしたらもっと早く片付けられるのかを考えている人」と「人の言うままに何も考えていない人」では成長するスピードが全然違います。
初めは誰もが素人で優秀なんていう人はいません。「優秀な人物像」を想像し努力すればそこでようやく優秀な人に近づけるのです
(私のお気に入りの本の図)
本の話に戻ると、私個人的な意見としては、
たくさんの本を雑然と読むよりも1つの本を何回か繰り返し読んだ方が良い
かなぁ・・・と。このあたりは人によって違うと思いますし、ケースバイケースなのですが、私のチョイスが「哲学」だったり「生物学」だったりと、1回サラッと読んだだけじゃよく分からない物が多いので・・・。
私自身はキリスト教ではありませんが、聖書を噛み砕いた「聖書物語(挿絵付)」が結構おススメだったりします。
原文の聖書はチョイと素っ気ない表現と言うか「時系列や家系が複雑かつ膨大で、読んでいるうちによく分からなくなって」きますので。
聖書を読んでいると「キリスト教の文化」がじんわりと分かるようになるので、例えば欧米の映画の中での「ちょっとした仕草やシーン」が一体どういう意味なのか、とか、アメリカ国民の3割が福音派のため、その辺りの心情や事情が何となく分かってくるので「少し得した気分」になれます。多分。
もちろん「普通の読み物」としてもかなり面白いと思います。
っつーか、エホバの神様が回りくどい解決策ばかりするので、(神様が)一体全体何をしたいのかよく分からないのですけれど、ねぇ・・・(神のみぞ知るって事なのか?!)
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は今流行のecoを考える上での原点の本です。
この本の中身の科学的な根拠が今となっては少し古いというか「間違いが多い」のですが、今なおこの本が色あせる事も無いのは、ecoを考える事はこういう事なのだと教えてくれるからであります。
取りあえず、本の紹介をしているときりがないのでこのへんで止めておきます。ハイ。