丸亀藩を代表する勤王志士として、土肥大作が挙げられる。
通称は、初め猪太郎、のち大作。名は、實光。字は、孟輝、詩香、甲山。
丸亀藩士土肥正助の長子、母は高口氏。天保8年9月2日生まれ。
初め、藩学正明館に学び、安政4年江戸に至り、羽倉外記に従遊し、転じて昌平黌に学ぶ。
安政6年藩に帰り、実弟土肥七助と共に藩内外にあって国事に尽くそうと誓い、七助は脱藩し天下の志士と交わった。大作も藩内の一員としてしばしば京阪を往来し、長州・土佐の志士との交際あり。
また、藩主京極朗徹の内旨をに以て当時の形勢、情勢を密報し、藩論を尊王攘夷に振興する功績大であった。
元治元年6月、長州藩の内使滝弥太郎が丸亀藩に来た際も藩主京極朗徹は大作に対応させた。
慶応2年6月、長州征伐で伊予松山藩に丸亀藩が参軍した際には、大作の長州との交流の嫌疑がもたれ、藩士小林小十郎宅に幽閉された。
慶応4年正月、大政維新に会し、その幽閉を解かれ高松藩征討軍の参謀となる。時に丸亀藩では、土佐山内侯の庶子を藩主の養子とし、その嗣子となすとの内約が成っていたが、大作が京都より急ぎ帰藩し、丸亀藩京極氏は大祖以来30余世、他の血族を混ぜず累々と続いてきたのに…と必死に懇願し、その内約を止める事ができた。
明治元年6月、三河県判事~明治2年5月
明治2年10月、丸亀藩権大参事になり、藩政改革
明治4年4月、民部省
明治4年5月、丸亀県創設の為、民部省より丸亀藩へ出張。~明治4年8月
明治4年7月、丸亀藩不平士族の襲撃を受けるもそれを防ぐ。
明治4年11月、飾磨県参事
明治5年1月、新治県参事
明治5年5月24日、自殺。
以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。
平成26年5月撮影。
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丸亀城 勤王碑~土肥七助
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丸亀城 勤王碑
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