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讃州菴

讃岐善通寺周辺のちょっと昔を探検してみよう。
善通寺・旧陸軍十一師団・琴平参宮電鉄など。

丸亀城 勤王碑~村岡宗四郎2

2015-04-30 | 近代建築物(丸亀市)


村岡宗四郎正徳は、村岡竹所の長子で丸亀魚屋町で生まれる。
10歳~17歳迄、叔父である小橋保蔵(円座村)の許で皇典及び漢学を学び、武芸は居合を学んだ。
丸亀に帰ってからは、尊王攘夷に活動し、文久3年中山忠光が大和にて挙兵するとの報を受け、小橋・日柳燕石等もそれに応ぜんとするも失敗するや、そのことが原因して村岡宗四郎は、慶応2年11月藩獄に幽閉された。

慶応3年正月釈放されるも、間もなく病いに罹り死去。22歳。

大正8年11月、従五位を贈られた。


以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。




平成26年5月撮影。






丸亀城 勤王碑~村岡箏子
丸亀城 勤王碑~村岡宗四郎1




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丸亀城 勤王碑~ 村岡宗四郎1

2015-04-26 | 近代建築物(丸亀市)


丸亀城三の丸にある勤王碑は、土肥大作と村岡宗四郎を讃えて建立されたものである。

幕末の勤王志士村岡宗四郎正徳を語る前に村岡家について。

村岡家の祖は、平忠通より出づ。もと、多度郡南鴨村に居を構えていたが、敇清(ただきよ)の代に至り、家運が繁栄したので、丸亀葭町に移り越後屋荘兵衛と改め、丸亀藩の銀札座の出納管理を命ぜられ、苗字帯刀を許された。この敇清が村岡家の祖。村岡家の基礎を作った。延享3年没(1746年)49歳。

二代目は、村岡景福。字以徳、通称宗四郎。
和歌をに好み、国史に通じ、神儒仏三道を厚く信ず。宝暦10年(1760年)居を魚屋町に移した。
49歳の時に家督を長子景輿に譲り、四方を漫遊し風月を楽しんで暮らす。
享和2年没(1802年)76歳。

三代目は、村岡井洲。名は景輿、通称は弥平太、字は、伯衡・井洲。
代々、丸亀藩の紙幣管理を生業となす。
義侠心に富み、人の急を救う事を楽しみとした。交際を好み、しばしば京畿に遊び名士と交わった。
文化4年没(1807年)60歳。

四代目は、村岡竹所。名は景緝、通称は、藤兵衛竹所、字は君熈。
文学を好み詩画をよく嗜んだ。人の難儀を見ては必ず救うと云う。先代は、家政やや放漫の兆しがあったのを竹所の代に至りよく整理し繁栄を極めた。傍らで醤油醸造業を始めた。
嘉永4年没(1851年)63歳。

五代目が村岡宗四郎正徳であるが、上記のような家風であればこそ、そして名士と交流するその下地があればこそ村岡宗四郎があるのだと感じる。宗四郎については、次回紹介したい。


以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。




平成26年5月撮影。





丸亀城 勤王碑~村岡宗四郎2
丸亀城 勤王碑~土肥七助




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丸亀城 勤王碑~土肥七助

2015-04-24 | 近代建築物(丸亀市)


丸亀藩の勤王志士、土肥大作の同母弟に土肥七助がいる。

通称は、初め栄造、のち正治。名は、實忠。
天保14年1月生まれ。七助は、脱藩後自ら名乗った名前。

兄大作の影響を受け、尊王攘夷に傾き、文久3年7月21歳の時、脱藩し京摂間に奔る。
同年8月、三条実美以下七卿に従って長州藩に入り、また密かに京阪間に出て四方の有志と交わり、尊王討幕の策を講じて且つ、天下の情勢を丸亀藩に通報するを任務とした。

元治元年6月、京都木屋町でおきた池田屋騒動の際には、堀川の小屋に逃れたところを新撰組に囲まれるも、挺身奮闘し難を逃れた。のち、水戸に赴き東国の形勢を見たあと西帰しようとするも、同志である長州藩の久坂玄瑞・寺島忠三郎等が既に死亡していると聞き、密かに大阪にて大作と会い、二人で丸亀に帰った。丸亀では母妹に会った。

のち、再び長州藩に入り、慶応元年三条公ら五卿を筑前に送った。その後の消息は不明。


以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。




讃岐の勤王志士の中で、時代の最先端を東奔西走したのは、七助をおいていないだろう。






平成26年5月撮影。





丸亀城 勤王碑~村岡宗四郎1
丸亀城 勤王碑~土肥大作




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丸亀城 勤王碑~土肥大作

2015-04-22 | 近代建築物(丸亀市)


丸亀藩を代表する勤王志士として、土肥大作が挙げられる。

通称は、初め猪太郎、のち大作。名は、實光。字は、孟輝、詩香、甲山。
丸亀藩士土肥正助の長子、母は高口氏。天保8年9月2日生まれ。
初め、藩学正明館に学び、安政4年江戸に至り、羽倉外記に従遊し、転じて昌平黌に学ぶ。

安政6年藩に帰り、実弟土肥七助と共に藩内外にあって国事に尽くそうと誓い、七助は脱藩し天下の志士と交わった。大作も藩内の一員としてしばしば京阪を往来し、長州・土佐の志士との交際あり。
また、藩主京極朗徹の内旨をに以て当時の形勢、情勢を密報し、藩論を尊王攘夷に振興する功績大であった。
元治元年6月、長州藩の内使滝弥太郎が丸亀藩に来た際も藩主京極朗徹は大作に対応させた。

慶応2年6月、長州征伐で伊予松山藩に丸亀藩が参軍した際には、大作の長州との交流の嫌疑がもたれ、藩士小林小十郎宅に幽閉された。
慶応4年正月、大政維新に会し、その幽閉を解かれ高松藩征討軍の参謀となる。時に丸亀藩では、土佐山内侯の庶子を藩主の養子とし、その嗣子となすとの内約が成っていたが、大作が京都より急ぎ帰藩し、丸亀藩京極氏は大祖以来30余世、他の血族を混ぜず累々と続いてきたのに…と必死に懇願し、その内約を止める事ができた。

明治元年6月、三河県判事~明治2年5月
明治2年10月、丸亀藩権大参事になり、藩政改革
明治4年4月、民部省
明治4年5月、丸亀県創設の為、民部省より丸亀藩へ出張。~明治4年8月
明治4年7月、丸亀藩不平士族の襲撃を受けるもそれを防ぐ。
明治4年11月、飾磨県参事
明治5年1月、新治県参事
明治5年5月24日、自殺。


以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。






平成26年5月撮影。





丸亀城 勤王碑~土肥七助
セシール『志度のさくら』2015
丸亀城 勤王碑




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セシール『志度のさくら』2015

2015-04-21 | 町並(さぬき市)




さぬき市志度のセシールの志度の敷地内で開催されたセシール『志度のさくら』。
ぼたん桜が満開。

愛媛県や島根県などからの観光バスも来ていた。
やっぱり凄い。



平成27年4月19日撮影。





丸亀城 勤王碑~土肥大作
丸亀城 勤王碑




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丸亀城 勤王碑

2015-04-19 | 近代建築物(丸亀市)


丸亀城三の丸に勤王碑がある。

この碑は、幕末から明治初めに活躍した郷土の勤王志士、土肥大作、村岡宗四郎が大正8年に贈位されたのを記念して、勤王志士遺烈表彰会が大正12年に建立した。

土肥大作は、天保8年に現城西町で生まれ、征討軍参謀を経て新治県(茨城県)参事在任中、明治5年3月、36歳で死亡した。

村岡宗四郎は、弘化2年魚屋町で生まれ、母箏子は、香川郡円座村の勤王家小橋道寧の息女。その影響で勤王を志し活躍中、慶応3年1月、22歳で死亡した。

以上、碑文案内文より。(加筆あり)



他に丸亀藩で知られる勤王志士として、土肥大作の弟である土肥七助、各務半左衛門、本島正覚院住職智幢、琴平の日柳燕石、美馬君田など。

次回、もう少し詳しくみていこう。




平成26年5月撮影。





セシール『志度のさくら』2015
丸亀城 勤王碑~土肥大作
丸亀城 延寿閣別館




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丸亀城 延寿閣別館

2015-04-17 | 近代建築物(丸亀市)





丸亀城三の丸に延寿閣別邸がある。

丸亀市HPによれば、

昭和8年に丸亀城下にあった旧丸亀藩主京極家の別邸、延寿館を移築したもので、その名をとり延寿閣と名付けた。
昭和60年に解体撤去されたので、別邸しか見られません。

とある。今あるのは、その別邸かな。




平成26年5月撮影。





丸亀城 勤王碑
丸亀城 延寿閣別館 その2
丸亀城 三の丸井戸



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丸亀城 三の丸井戸

2015-04-15 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城 三の丸井戸だ。

囲いは、東西南北共、約3.5m。
井戸の直径は、約2.5m。
山崎時代の絵図によると、深さは31間(約56m)。
石垣と同じ花崗岩で丈夫に築かれている。
現在は、空井戸となっていて、城外への抜け穴伝説のある井戸である。




平成26年5月撮影。





丸亀城 延寿閣別館
丸亀城三の丸



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丸亀城三の丸

2015-04-13 | 近代建築物(丸亀市)




丸亀城の三の丸だ。
三の丸の広さは、

東 南北52間、幅18間(南北93.6m、幅32.4m)
西 南北59間、幅11間(南北106.2m、幅19.8m)
南 東西88間半、幅13間(東西158.94m、幅23.4m)
西 東西77間半、幅9間(東西139.14m、幅18.2m)


『新修 丸亀市史』(昭和46年、丸亀市)参考。




平成26年5月撮影。





丸亀城三の丸井戸
丸亀城二の丸井戸



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丸亀城 二の丸井戸

2015-04-12 | 近代建築物(丸亀市)






丸亀城の二の丸井戸だ。
二の丸井戸の深さは、36間(56.8m)もある。

二の丸井戸には、悲痛な伝説が残っている。

丸亀城の石垣を築いたのは、山崎家治の家臣羽坂重三郎である。羽坂重三郎は、那珂郡苗田村の人で石工の名人と謳われていた。山崎家治が石垣修築工事の際に「よもやこの石垣を登る者は誰もいないであろう」と告げたところ、羽坂重三郎は、「私に一尺程の鉄棒を持たせて下されば登ってみせます」と申し出た。そしてその言葉どおりするすると石垣をよじ登った。

山崎家治は、これを見て驚嘆し、もしも羽坂重三郎が敵方に回ったらそれこそ一大事と考え、羽坂重三郎に城内の井戸を探らせ、隙をみて上から石を落とし、生き埋めにしたという。

羽坂重三郎は、石垣だけでなく、丸亀城の構造をも手掛けた人物とも謂われている。


『新修 丸亀市史』(昭和46年、丸亀市)参考。




平成26年5月撮影。





丸亀城三の丸
丸亀城二の丸



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