丸亀城三の丸にある勤王碑は、土肥大作と村岡宗四郎を讃えて建立されたものである。
幕末の勤王志士村岡宗四郎正徳を語る前に村岡家について。
村岡家の祖は、平忠通より出づ。もと、多度郡南鴨村に居を構えていたが、敇清(ただきよ)の代に至り、家運が繁栄したので、丸亀葭町に移り越後屋荘兵衛と改め、丸亀藩の銀札座の出納管理を命ぜられ、苗字帯刀を許された。この敇清が村岡家の祖。村岡家の基礎を作った。延享3年没(1746年)49歳。
二代目は、村岡景福。字以徳、通称宗四郎。
和歌をに好み、国史に通じ、神儒仏三道を厚く信ず。宝暦10年(1760年)居を魚屋町に移した。
49歳の時に家督を長子景輿に譲り、四方を漫遊し風月を楽しんで暮らす。
享和2年没(1802年)76歳。
三代目は、村岡井洲。名は景輿、通称は弥平太、字は、伯衡・井洲。
代々、丸亀藩の紙幣管理を生業となす。
義侠心に富み、人の急を救う事を楽しみとした。交際を好み、しばしば京畿に遊び名士と交わった。
文化4年没(1807年)60歳。
四代目は、村岡竹所。名は景緝、通称は、藤兵衛竹所、字は君熈。
文学を好み詩画をよく嗜んだ。人の難儀を見ては必ず救うと云う。先代は、家政やや放漫の兆しがあったのを竹所の代に至りよく整理し繁栄を極めた。傍らで醤油醸造業を始めた。
嘉永4年没(1851年)63歳。
五代目が村岡宗四郎正徳であるが、上記のような家風であればこそ、そして名士と交流するその下地があればこそ村岡宗四郎があるのだと感じる。宗四郎については、次回紹介したい。
以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。
平成26年5月撮影。
→丸亀城 勤王碑~村岡宗四郎2
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