村岡宗四郎正徳は、村岡竹所の長子で丸亀魚屋町で生まれる。
10歳~17歳迄、叔父である小橋保蔵(円座村)の許で皇典及び漢学を学び、武芸は居合を学んだ。
丸亀に帰ってからは、尊王攘夷に活動し、文久3年中山忠光が大和にて挙兵するとの報を受け、小橋・日柳燕石等もそれに応ぜんとするも失敗するや、そのことが原因して村岡宗四郎は、慶応2年11月藩獄に幽閉された。
慶応3年正月釈放されるも、間もなく病いに罹り死去。22歳。
大正8年11月、従五位を贈られた。
以上、『讃岐人名辞書』(昭和11年)参考。
平成26年5月撮影。
→丸亀城 勤王碑~村岡箏子
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