

これは、仁尾城跡だ。
現在この地には、江戸時代に移転してきた真言宗の覚城院が建っている。
外観を見るに立派な石垣に見えるが、覚城院の石垣と言われている。
ただ、築城の名手藩主山崎家治の次男山崎豊治の陣屋時代の石垣跡という説もあり、捨てがたい。
山崎家は、3代治頼の時、無嗣断絶となるが、山崎家治の次男山崎豊治が備中成羽藩にて交代寄合にて幕末迄存続している。その山崎豊治の丸亀時代の陣屋が仁尾城跡に建てられたとの説だ。
実際、山崎豊治は「讃岐仁保」にて5000石を知行されており、当時廃城となっていた仁尾城を改修したとしてもなんらおかしくはない。
参照:広報みとよ(平成23年3月号)
平成26年9月撮影。
→国に和せざれば、以て軍を出すべからず(『呉子』)
→仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】
←疑わしきは問を思う。(『論語』)
←旧百十四銀行仁尾支店【三豊市仁尾町】
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