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一法学生の記録

2014年4月に慶應大学通信部に進んだ法学生の記録である
(更新)2017年4月に神戸大学法科大学院へ進学しました。

『プライバシーと高度情報化社会』(岩波新書,1988)と最近の話題

2015-10-21 19:49:07 | 憲法(J)
10/21

 昨日、図書館の貸出履歴が市町村によって収集され、個人の思想状況について、把握され得る危険性について、本書では指摘されていることに言及した。今日、ハフィントンポストの記事「村上春樹さんが図書館で借りた本はなぜ秘密にされるべきなのか?・・・」という記事で、このことが取り上げられていたので、紹介したい。

 本書でも紹介されている、日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」の第一条は次のような文言である。

 1 読者が何を読むかはその人のプライバシーに属することであり、図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第三五条にもとづく令状を確認した場合は例外とする。

 事件の概要は、作家、村上春樹氏が50年前、高校生の時に学校図書館で借りた本のタイトルが、本人の事前の承諾なく報道機関が報道したというものである。日本図書館協会は、このことに憂慮し、報道機関に対して、直接申し合わせたようだ。

 本記事で、私の目を引いたのは、犯罪捜査と「利用者の秘密」が衝突という、項目である。2011年の調査によれば、捜査機関からの貸出記録等の照会を受けたことのある館が、調査対象図書館の20.3%であり、その内、実際に提供した館が58.9%に上っていたという、内容である。

 この問題は、本記事でも指摘される通り、上掲の「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」の第一条の、「憲法第三五条にもとづく令状を確認した場合」に該当する場面ではなく、捜査機関による照会状のみにより図書館が開示をしている点、また、調査対象図書館の五分の一に相当する館に対し、捜査機関による照会が行われている実態について、憂慮すべき問題があると、思われる。

 最近では佐賀県武雄市を皮切りに、TUTATYAを管理するCCCという企業体による、公共図書館の参画が話題になっとなっており、公的部門のみならず、民間企業体による情報の管理についても、注意を喚起せざるを得ない。(図書館の貸出履歴から個人の趣味・傾向に基づいた、ターゲティング・マーケティングが行われないという安心は、得られるのだろうか)
 
 また、マイナンバー法においても、個人番号カードの利用範囲として、地域住民の利便性の向上に資するものとして条例で定める事務に利用することができる(第18条第1号)、という規定があり図書館の貸出機能が地方公共団体の条例に基づいて付加される可能性が、大いにあると、考えられる。

 以上

10/20

2015-10-20 20:04:38 | 憲法(J)
10/20

 今日から通常営業に戻った。国慶節や何やらで、二週間の内に二回も日本に帰り、大変疲れた。やっと腰を落ち着けて、仕事・学習と尽力していきたい。さて、巷でもマイナンバーが話題であるが、堀部政男先生の『高度情報化社会のプライバシー』(岩波新書,1988)を読んでいる。先生は、今次のマイナンバー制度でも、本法制の運用を監督する第三者委員会に加わっておられる。

 書かれたのは1988年であるが、個人情報の要保護性については、日本では70年代から議論が活発化したこと、伝統的プライバシーについては、欧米では20世紀の初頭から法制化が進んできたこと、この本が書かれた89年時点では、個人情報保護の法律は制定されていないが、情報コントロール権の概念についても、地方公共団体においては広く議論され条例にもされていること、住民基本台帳の閲覧制限等についてはやっとガイドラインが定められたこと、等、高度情報化社会の進展と法制化の流れをうかがい知ることができる。

 だが、図書館の貸出履歴が市町村によって収集され、個人の思想状況を把握するために使用され得るなどは、本書を開いて初めて気づいた一点であった。これまでの憲法(J)のレポート学習は、マイナンバーを中心に資料集めをしていたのだが、先生にアドバイスを受けた通り、ひろく個人情報保護法など行政法の分野から接近することで、一気に情報が増えた気がする。

 以上

憲法改正の手続と限界。

2015-06-21 19:35:53 | 憲法(J)
憲法改正の手続と限界。

憲法96条には、憲法改正に必要な二段階の手続きが規定されている。一段目は憲法改正の発議であり、これは「国会が発議し」となっているが、この「発議」の意味は、憲法改正案の提出権あるいは議決権を示しているのではなく、ただ単に国民に対して提案するという、意味である。また、国会議員の総数の3分の2以上の賛成とは、その母数が法律案を議決する際に必要な出席議員の二分の一と比べ、厳しいことが分る。さて、憲法改正の限界について、述べよう。日本国憲法は、前文において、この憲法が国民に由来することを明らかにしている。すなわち、憲法の制定権力者が、国民であることを明示する。このことは、同時に国民主権主義を意味するものでもあるが、この国民が制定した憲法を、憲法改正によって、たとえば天皇に属せしめるようなことは、理論的に出来ないとされている。なぜなら、このことは国民が自ら奴隷になるという選択を行うこと言うことであり、ジョン・ロックの理論に基づけば、その瞬間、国民は国家と戦争状態に置かれることになろう。次に、この憲法を貫く基本原理を変更することは、憲法の文言によってできないと、言えよう。すなわち、国民主権主義・基本的人権の尊重・平和主義については、憲法は特に明文を以て「この原理に反する憲法、法令および詔勅は排除する」、「永久の権利」あるいは、戦争は「永久に」放棄すると、示している。だが、最後に重要なのは、いかなる憲法の改正についても、法的・論理的に憲法改正の限界を論ずることと、実際に憲法改正が行われることは別問題であるということである。すなわち、論理的には憲法の限界を超えているにしても、実際の憲法を改正するかどうかは、その改正について判断する資格を有するものが賛成するかの判断にかかっているのである。

以上。

司法権とは

2015-06-15 12:30:11 | 憲法(J)
司法権とは

司法権とは、憲法第七六条(1)により、司法権は裁判所および法律の定めるところによって設置する下級裁判所に属するものと規定され、この「司法権」については、裁判所法第三条により「裁判所は日本国憲法に特別の定めある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判」すると定めている。「法律上の争訟」というのは、具体的な刑事事件・民事事件の争訟として裁判所に提起されるもので有り、民事事件については、当事者間における法律関係・権利義務が存在する紛争について法律の適用により解決することができる事件のことを指し、このような事件に対して法律を解釈して適用し、結果を宣言することによってその紛争を裁定し、解決する国家の公権力の作用について司法権の行使と言う。このため、事件の内容が一般的であり、抽象的である場合には、その事件の争訟性の要件を満たしていない場合には、裁判所はこれを受理することができない。また、最終的に法律の適用によって判示することのできない性質の問題、たとえば政治上の政策に対する争いや、学問上の学説に関する争い、宗教上・考え方の違いから生ずる争いは、いずれも司法権の適用論外であると、言わざるを得ない。

以上。