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近藤貞雄さんの「遺言」

2006年01月03日 | Baseball/MLB
実のところ、今日も近藤貞雄さんご逝去のショックから立ち直ることができずにいる。
夕べは2000年に近藤さんのインタビューをまとめた共著「近藤貞雄の退場がこわくて野球ができるか」を何度も読み返しながら、目黒雅叙園のティールームで時間が経つのも忘れて野球談義に花を咲かせた、いや熱中したことを昨日のことのように思い出していた。

その本のなかから、近藤さんの「遺言」とでも言うべき一節を抜粋してご紹介したい。近藤さんご自身は巨人OBでありながら、後半生はまさに「アンチ巨人」を貫かれたような方だったが、以下の言葉は、逆に現在の読売関係者たちによく読んで欲しいと思う。

「1974年の中日の優勝は、単に一チームの優勝ではなく、強豪は必要だが、常勝チームはいらないという意識を球界やファンに植えつけたということでも、意義のある業績だったと思っている」

「自分たちのプレーをお金を払って見に来てくれる観客が、どういうプレーを期待しているのか? どんな試合が見たいと望んでいるのか? プロ野球の監督や選手は、試合に勝つことももちろん大切だが、その中身、プロセスも、お金を払ってもらうのにふさわしい、ニーズに応えることのできる内容であるように、常に心がけるべきだ。またそれができない人は、決してプロとは言えないのではないだろうか」

近藤さんの野球人生は、1943年の西鉄軍に始まり、東京巨人、中日での現役時代、中日、東京(ロッテ)でのコーチ時代、そして中日、大洋、日本ハムでの監督生活と、評論家・解説者としての活動を合わせて60年あまりに及んだ。それどころか、岡崎中学の学生だったころには名古屋・鳴海球場で旗揚げしたばかりの職業野球を観戦していたというから、ファン歴も含めればまさに人生そのものがプロ野球史のような方だった。
ある日、そんな近藤さんの野球人生を「うらやましいですね」と言ったとき、近藤さんは私にこう言ってくれた。
「君だって、その気になれば、定年もないんだし、死ぬまで野球にかかわる仕事ができるじゃないか。人から見ればうらやましい仕事だよ」
そんな言葉を思い出しながらも、依然として私は近藤さんの死を現実の出来事として受け止めることができないのである。

それから、ご訃報を伝える新聞各紙の報道では紹介されていなかったのだが、近藤さんの波乱万丈の人生は映画『人生選手』になったほか、寺山修司のスポーツエッセイ「スポーツ版裏町人生」のなかでも「三本指の男」として取り上げられている。巨人で背負っていた背番号「17」は、戦前はヴィクトル・スタルヒン、近藤さんの退団後は藤本英雄が背負った栄光のナンバーである。


追記:こうした事情ですので、3が日に予定していたクイズの出題と、その回答は延期させてください。申し訳ありません。


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