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「ベースボールと戦争」⑦「最後の早慶戦」と職業野球「総進軍大会」

2011年08月29日 | Baseball/MLB

(「最後の早慶戦」参加選手・関係者の集合写真。このうち3人が戦場で帰らぬ人となった)

 

 終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて「靖国の鎮魂を疑う」と題し、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を転載しています。今回は太平洋戦争末期に開催された「最後の早慶戦」と職業野球「総進撃大会」に関するエピソードです。

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 東京六大学野球連盟解散後の1943年(昭和18年)10月、文科系大学生の徴兵猶予撤廃が撤廃され、多くの現役大学生が戦場へと駆り出されることになった。この「学徒出陣」前後から、慶大野球部は応召する部員へのはなむけとして早慶戦の開催を小泉信三塾長に直訴し、早大野球部に試合開催を申し入れる。

 しかし、当時の田中穂積総長をはじめとする当時の早大当局は軍部に対して及び腰だった。

 

 

前年、早大当局は野球部に対して、突然、軍部と文部省共催の「大学対抗教練大会」に参加することを命じている。重さ7.5kgの背のうを背負って40km3人一組で往復する過酷なもので、各校の陸上部員も参加するなか、棄権者が出たり成績が悪かった場合は野球部を解散させるとの条件を付きつけた。その意図が「野球部つぶし」にあったのは明らかだったが、最終ランナーが落伍者を背負ってゴールした野球部は参加百数十チーム中16位と健闘し、解散を免れる。

 しかしこのとき、表彰式のあいさつに立った文部省の担当者は、早大野球部員が仲間を助けた行為に対し、「もし戦場なら間違いなく全員戦死だ」と冷酷な言葉を投げつけた(それから70年近くを経た現在でも、教科書検定問題などに見られるように、文部官僚の頭の中身はこの当時とほとんど変わっていない「思考停止状態」に陥っている)。

 

 

早慶戦の開催も、一度は総長により却下されたが、小泉塾長をはじめとする慶応側の再三の申し入れ、さらに早大野球部員の総長への直訴もあって、431016日、早大・戸塚球場(安部球場)でようやく「最後の早慶戦」は実現した。

 

 

この試合に参加した両校野球部員のうち、早大・近藤清選手(岐阜商)ら3人の選手が戦場で帰らぬ人となっている。

野球体育博物館内の「戦没野球人モニュメント」には、楠本保、中田武雄(明石中慶大)、嶋清一(海草中明大)、桐原真二(慶大/早慶戦復活に尽力した功績で野球殿堂入り)、東武雄(東大/六大学リーグ第1号本塁打)、松井栄造(岐阜商早大)など、中等野球、大学野球、社会人野球で活躍した名選手の名前が見受けられる。しかもモニュメントに飾られているのは、春夏の中等野球全国大会、主要大学野球リーグ戦、都市対抗出場選手で戦死が判明した選手だけで、地方大会出場者や、アマチュアの野球愛好者を含めれば、数えきれないほどの野球人が永遠にその未来を絶たれた。

 

 

 

一方、職業野球は、1940年秋に、タイガースを「阪神軍」、イーグルスを「黒鷲軍」に改称したり、「GIANTS」の英文字を漢字の「巨」一文字に変更するなど、球団名やユニフォームからの「英語追放」を実施している。名古屋軍(現中日)に至っては、名古屋の「名」をナチスドイツの鉤十字に似せたデザインにする徹底ぶりだった。

さらに戦争への協力姿勢をアピールするため、試合前に選手による手榴弾投げ競争のアトラクションが開催され、「ストライク」を「よし」、ボールを「ダメ」などする野球用語の「日本語化」まで実行して生き残りをはかったが、選手の入営や応召は激しくなる一方で、44年になると試合開催は原則として週末のみに限られ、平日は選手が「産業戦士」として軍需工場などで勤労奉仕に駆り出された。

 

 

開戦前から特高警察や憲兵隊に「敵性外国人」として監視を受け、日本名「須田博」への改名を事実上強要されていた大投手ヴィクトル・スタルヒン(巨人)は、このシーズン途中、ついに官憲に強制連行され、終戦まで軽井沢の外国人収容所に抑留されている(以前CSの「ヒストリー・チャンネル」で放映されていたスタルヒンのドキュメント番組で、スタルヒンが自らの意思で収容所に入ったかのような解説がなされていたが、強制収用は多くの資料で明らかにされている歴史的事実で、番組制作者による意図的な改ざんと疑わざるを得ない)。

 

 

この年、「日本野球報国会」と改称していた職業野球は、応召や徴兵による選手不足と戦局の悪化から公式戦続行が不可能と判断し、所属6球団(巨人、阪神、阪急、産業、朝日、近畿)の選手を3チームに分けて開催した「秋の総進軍優勝大会」を最後に、1113日、活動休止に追い込まれた。職業野球草創期の大投手・沢村栄治が台湾沖で輸送船と運命をともにしたのは、その翌月のことだった。

 

 

近年、各地で相次いだ通り魔による無差別殺傷や、北朝鮮による拉致行為など、市民の平和な日常生活を理不尽な暴力が破壊する事件が、私たちの身近で起こっている。戦争はそうした暴力が国家によって行使され、さらにエスカレートしたものといえるだろう。

プロ、アマチュアを問わず、グラウンドで無心にボールを追いかけていた野球人たちの「日常」も戦争で破壊され、彼らの人生のもっとも輝かしい時期、あるいは前途洋々たる未来が永遠に失われた。

 

高校野球全国大会が開催される甲子園球場では、毎年815日、正午になると試合を一時中断し、選手、審判、大会関係者、観客が1分間の黙とうを捧げる。今年201189日の広島原爆記念日には、市条例による長年の「休業日」が解かれて半世紀ぶりに新広島市民球場でナイターが開催され、試合前に追悼のセレモニーが行なわれた。

ただ、「鎮魂の碑」に先人たち69名の名前が刻まれているプロ野球は、プロ野球組織や各球団が戦没野球人を追悼し、不戦を誓うための行事を行なっていない。

 

 

戦争で破壊された野球人たちの日常、永遠に失われた未来は取り戻すことはできない。しかし、野球界とファンが一体となって、彼らの功績をたたえ、犠牲をいたみ、恒久平和に向けての誓いを新たにすれば、少なくとも彼らの魂は永遠に生き続けることができる(つづく)。

最後の早慶戦
笠原和夫、松尾俊治
ベースボール・マガジン社
終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って
広畑成志
本の泉社
野球と戦争 (中公新書)
山室寛之
中央公論新社
消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)
牛島秀彦
河出書房新社
巨人軍最強の捕手―伝説のファイター吉原正喜の生涯を追う
澤宮 優
晶文社

 

 



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