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「ベースボールと戦争」⑧失われた「時間」と「未来」(上)

2011年08月31日 | Baseball/MLB

    終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて「靖国の鎮魂を疑う」と題し、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を転載しています。今回は戦争によって失われた日米プロ野球選手たちの「時間」と「未来」についてのエピソード、その1です。

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 2年前の2009年6月、194142年の2シーズン、巨人に在籍した広瀬習一投手1922-44)について、30年近くにわたり取材・調査を続け、単行本「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」(新日本出版)上梓した。

 広瀬の名前や経歴について、これまで詳しく紹介される機会は極めて少なかった。

 滋賀県大津市出身で、大津商業時代の1939年(昭和14年)春の選抜大会に遊撃手として出場し、その後投手に転向して、社会人野球大津晴嵐会(旭ベンベルグ=現旭化成のチーム)を経て、41年のシーズン途中、巨人に入団した。

 

 前年まで連覇を果たしていた巨人は、この年、エースのヴィクトル・スタルヒンが重病の肋膜炎にかかって戦線を離脱し、兵役から復帰した沢村栄治も既述のとおり戦地で受けたダメージで全盛期の力を失い、投手陣崩壊の危機に瀕していた。41年8月21日、後楽園球場の対黒鷲戦でデビューした広瀬は、横手からの速球と威力ある変化球を駆使し、3安打無失点で巨人史上初の初登板完封勝利の偉業を達成する。

 

 以後、この年8勝、翌42年には21勝をあげてリーグの最高勝率投手となり、連続優勝の立役者となったが、42年の公式戦終了後兵役に取られ、44年9月、激戦のフィリピン・レイテ島で22歳の若さで戦死している。

 

 巨人はその歴史で、沢村栄治から上原浩治(現オリオールズ)まで21人の20勝投手を輩出しているが、わずか2シーズンの在籍期間で戦場に散った広瀬は、そのなかでも、もっとも無名の存在といえるだろう。しかし、彼と一緒にプレーした巨人OBの千葉茂(二塁手)、楠安夫(捕手)、多田文久三(投手、捕手)、青田昇(外野手)の各氏(いずれも故人)は、異口同音に広瀬が巨人の歴史で果たした功績の大きさをたたえ、戦争で失われた才能を惜しんでいた。

 

 千葉氏は、「もし広瀬が生きて帰って戦後巨人に復帰していれば、(48年オフにライバル南海のエース別所を巨人が引き抜いた)別所事件なんか起こらなかったんだ」と、生前、いかにも無念そうに語っていた。

 

 広瀬が21勝をあげた42年は、日本のプロ野球史上空前絶後の「投高打低」のシーズンとして有名で、野口二郎(大洋)の40勝を筆頭に20勝投手が7人出現する一方で、首位打者の呉波(巨人)は打率.286で史上唯一の「二割台首位打者」となっている。

 広瀬はシーズンの3分の2が過ぎた時点で虫垂炎にかかり戦列を離れたため21勝にとどまったが、防御率はリーグ4位の1.19、全対戦打者との被安打率は.145828打数120安打)で、野口の.162をしのぎ、1イニングあたりの平均被安打+与四球数を示す数値(WHIP)も野口(0.771)に次ぐ0.774をマークしている。

 

 通算303勝のスタルヒン、237勝の野口と、ともにのち野球殿堂入りした大投手二人を上回るか匹敵する投球内容を見せていた広瀬が、もし生きて再びプロ野球のマウンドに立っていたならば、殿堂入りレベルの成績を残していた可能性は十分に想像できる。

 

 広瀬の先輩投手だったスタルヒンも、前回紹介したようにまた戦争の犠牲者だった。

 

 幼少時にロシア革命で祖国を追われた両親とともに来日したスタルヒンは、日本語を母国語として育ち、日本の小学校と中学校に通いましたが、国交はあっても常に緊張関係にあった日ソ関係の影響で何度も日本への帰化を希望しながら認められなかった。

 39年に日ソ両軍が軍事衝突したノモンハン事件が起こり、軍部がソ連への警戒をより強めた影響で、翌40年、スタルヒンは日本名「須田博」への改名を事実上強要され、官憲による四六時中の監視を受ける身となる。後楽園球場に向かう途中、橋のうえで立ち止まって神田川の川面をぼんやりと眺めていただけで、特高警察から「行き来する船の数を数えていた」と、言いがかりのような「スパイ容疑」をかけられたり、居住登録の更新で警察署を訪れ、担当部署を近くにいた警察官にたずねただけでいきなり平手打ちを食らったりなど、数々の理不尽な仕打ちを受けたあげく、職業野球戦前最後の年となった44年途中、通算199勝目をあげた直後、今度は「敵性外国人」として官憲に連行され、終戦まで軽井沢の外国人収容所に抑留された。

 

 戦後スタルヒンは巨人に戻らず、パシフィック、大映、高橋(いずれも消滅)などの弱小チームを転々とする。戦時下の過酷な生活の影響からか、その球威は巨人時代に比べて明らかに衰え、55年に現役を引退するまでの戦後10シーズンで20勝以上を記録したのはわずか1回。プロ野球史上初の300勝達成を置き土産にユニフォームを脱ぎ、引退からわずか1年あまりの57112日、交通事故で40年の悲劇的な生涯を閉じた

 

 そして、広瀬やスタルヒンのような、野球人の「失われた時間や未来」の悲劇は、戦勝国だったアメリカの野球界にも存在したのだ(つづく)。

 

 

 

戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
クリエーター情報なし
新日本出版社


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