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ベースボールと戦争②名一塁手・中河美芳 つきまとった憲兵隊のカゲ

2011年08月15日 | Baseball/MLB

中河美芳(1920-44)

 終戦記念日に合わせて、「靖国の“鎮魂”を疑う」と題し、過去に発表した「ベースボールと戦争」を加筆訂正のうえ転載します。今日は殿堂入りした名一塁手・中河美芳が戦争にいかに運命を弄ばれ、若くしてその前途を無残に断たれたか、そのエピソードです。

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三塁手や遊撃手がワンバウンドや山なりの悪送球を演じ、観客が思わずため息をついた瞬間、細身の一塁手はまるで軟体動物のように両足を広げ、ファーストミットを目いっぱい伸ばし、ボールをハエ取り紙のようにすくいあげた――名野球記者として知られた大和球士(故人)は、その名人芸に「タコ足」の異名を献上している。

 

 名人芸の主だった中河美芳一塁手(イーグルス)は1986年、特別表彰枠で野球殿堂入りを果たしたが、晴れの表彰式にその姿はなかった。1944年7月12日、兵役に就いていた中河は、フィリピン・ルソン島沖で米軍の攻撃を受けた輸送船と運命をともにした。24歳の若さだった。

 鳥取一中(現鳥取西高)時代、左腕投手として二度甲子園に出場した中河は、父親を失っていた実家の家計を助けるため、19377月、関西大学を中退して、この年誕生したばかりの新球団イーグルスに身を投じた。

 入団直後、秋季リーグ戦(当時の職業野球は春秋の2シーズン制)前のキャンプで中河は一塁手としての卓越したセンスを森茂雄監督(大阪タイガース初代監督、戦後早大野球部監督)に見出される。投手としては二ケタ勝利(37年秋)、打者としても打撃ベストテン入り(39年)を果たすなど、投手兼四番打者として大活躍したが、何といっても人気の的となったのはその一塁守備だった。

 ニックネームを献上した大和球士は、その著書「プロ野球三国志」で、中河の名守備をつぶさに再現している

「いかなる悪投、暴投、難球も軽々と処理してアクロバット的であった。二、三(塁手)、遊撃手から投げられるワンバウンドの悪球はショートバウンドであれ、ロングバウンドであれ楽々と処理し、横へそれた低投は両股を思い切りひろげ、尻を地面にぴたりつけて処理した。ために、ファンは内野手が悪投して中河が人間離れした補給をするのを楽しみにした。(中略)内野手が好投し、一塁へストライク投球でもしようものなら、黒鷲のダッグアウトすぐ後ろの席に陣取った定連たちが『実にくだらん、中河の妙技を見られなかった』と嘆いたものだ」(原文のまま)

 イーグルスは37年秋と38年春の3位が最高で、戦時中の球団名日本語化で「黒鷲軍」「大和軍」と改名したあと43年限りで解散するまで、すべてBクラスの弱小球団だったが、中河はそのアクロバティックな一塁守備で当時の職業野球を代表する大スター選手となった。投手として通算41勝、打者としても通算打率.242にすぎない中河が殿堂入りを果たしたのは、ひとえに「空前絶後」と呼ばれたその名一塁手ぶりが評価されてのことだった。

 

 しかし、それほどの大スターだったことが、中河に思わぬ不運をもたらした。中河はプロ入りと同時に、徴兵猶予のため、大学の夜間部に入学したが、投手兼一塁手として大車輪の活躍を続けるその体には試合後疲労が残り、講義も欠席がちとなる。これが「中河は兵役逃れのため、大学に籍だけ置いている非国民だ」と、憲兵隊の不興を買うことになった。

 前回紹介した石丸進一など、大学夜間部に籍を置いて兵役を猶予されていた選手はほかにも存在したが、中河は職業野球を代表する大スターだったために、憲兵隊に目をつけられることになった。

 中河への監視や尾行が日常化し、下宿に踏み込まれて本棚をあらいざらい調べられ、再三にわたって憲兵隊での取り調べも行なわれた。当時のチームメイトも「憲兵隊の影におびえていた」と当時の様子を証言している。

 こうした恐怖の日々に耐えられなくなった中河は41年の公式戦終了後、まだ兵役が猶予されていたにもかかわらず、自ら志願して兵役に就いた。入営当日の様子を、大和球士は「プロ野球三国志」で次のように紹介している。

 

「入隊の日、東京の世田ヶ谷連隊に到着したのは集合30分前であった。腕時計を見つめて中河はほっとした。

『やれやれ、早く着いてよかった』

 ところが、営門前で門をくぐる入営兵をひとりひとり首実検をしていた大男の憲兵が、

『貴様が野球選手の中河か、何故もっと早く来んか。貴様は軍隊へ入るのがそんなに厭なのか』

 と、大きな掌で、顔がアザになるほどビンタをくわせた。そして、つけ加えた。

『貴様のような非国民は、軍隊で特別に鍛えてやる』

 入隊してからも、憲兵の言葉通り、辛いことの連続であった。憲兵隊名ざしで〝鍛える〟のがどんなに辛いことか判った時は、中河は地獄にいた。ビンタ地獄であった」(原文のまま)

こうして中河は入隊後も、「兵役を忌避していた非国民」として、上官による暴力など執拗(しつよう)な迫害を受け続けた。427月、一時外出の許可を受けて後楽園球場に姿を現した中河を見たかつてのチームメイトたちは、すっかり生気を失った表情から、「中河は軍隊でいじめられている」と悟ったという。

 

 中河がフィリピンで戦死したことが故郷の鳥取に伝えられ、葬儀が営まれたときにも、憲兵隊が現れた。戦死公報に記されていた戦没地をそのまま祭壇に張り出していたところ、「日本の部隊がいまどこにいるかがわかってしまう」と、その紙を破り捨てたという。中河の足跡を追った田村大五氏(故人/元報知新聞運動部長、ベースボール・マガジン社常務)は「戦場に消えてもなお、憲兵の目に追われた」とその著書「プロ野球選手・謎とロマン」に記している。

 中河のプロ野球生活はわずか5年間(6シーズン)。そんな短い期間での活躍でも殿堂入りを果たしたことを思えば、24年の生涯はあまりにも短く、失われた才能は惜しんであまりあるものだった(つづく)。

 

プロ野球三国志〈〔第1〕〉青春篇 (1956年) (スポーツ新書)
大和球士
ベースボール・マガジン社

プロ野球選手・謎とロマン〈2〉 (1979年)
大道文(田村大五)
恒文社
消えた春―特攻に散った投手石丸進一 (河出文庫)
牛島秀彦
河出書房新社
戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
上田 龍
新日本出版社
野球と戦争 (中公新書)
山室寛之
中央公論新社
終戦のラストゲーム―戦時下のプロ野球を追って
クリエーター情報なし
本の泉社
傷だらけの一頁
クリエーター情報なし
ベースボール・マガジン社

 



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1 コメント

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Unknown (中河後楽園)
2011-08-15 14:00:16
私も大和球士さんのプロ野球三国志を読んで、
中河美芳さんを知り、本拠地の後楽園にひっかけ男ドアホウ甲子園の藤村甲子園に対抗して使っております。近藤唯之さんの夕刊フジ連載の”プロフェッショナル”を読み、ご両親がご存命と知り、入社1年目の1973年夏休みに雑貨屋さんだったと思いますがお邪魔し、玄忠寺にお参りもしました。最近このペンネームを使うこともありませんでしたが、久々に思い出させていただきました。ありがとうございました。そうですよね。我々世代がもう少し戦争の悲惨さを声高に若い世代に少しでも伝えなければいけませんね。
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