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「ベースボールと戦争」⑩失われた「時間」と「未来」(下)

2011年12月23日 | Baseball/MLB

(大投手アレクサンダーは第一次大戦で兵役に就き、その影響が投手生活に暗い影を落とした) 

 アメリカが第二次世界大戦に参戦したとき、公式戦やワールドシリーズの開催が認められたのは、1920年代に本塁打王ベーブ・ルース(ヤンキース)が出現して以降、野球が「国民的娯楽」としての地位を確立していたことが背景にあった。
 しかし、そのルースが投手としてレッドソックスでデビューした1914年に勃発(ぼっぱつ)した第一次世界大戦では、大リーグや米球界、選手たちの置かれた状況は過酷なものだった。

 アメリカが参戦して2年目の18年7月、大リーグやマイナーリーグなどのプロ野球は、国防長官によって「非生産業」に規定され、選手たちは原則として徴兵免除の対象から除外される。そのため通常154試合の公式戦は140試合で打ち切られ、ワールドシリーズに出場したレッドソックスとカブスの選手だけがシリーズ終了後まで徴兵を猶予された。


 この頃の大リーグを代表する大投手のひとりに、グローヴァー・クリーヴランド・アレクサンダー(フィリーズ)がいた。デビューした11年にリーグ最多の28勝、15年からは3年連続で30勝以上をあげるなど、7年間で計190勝をマーク。16年には、現在も大リーグ記録の年間16完封を記録している。
 ところが1917年のシーズン終了後、フィリーズはアレクサンダーを突然カブスに放出する。第一次大戦にアメリカが参戦したことによって、アレクサンダーが兵役に取られることを見越したオーナーが、トレードマネー欲しさに売り払ったのだ。

 翌18年、アレクサンダーは徴兵されてフランス戦線に派遣される。戦傷こそ負わなかったものの、砲兵隊に配属され、砲弾や銃弾が飛び交う激戦地で生と死の境をさまよう毎日を過ごした。その影響で、除隊して大リーグに戻ったあとも彼はしばしば難聴に悩まされ、持病のてんかんも悪化する。復帰2年目の20年には27勝で6度目の最多勝に輝いたものの、戦争の後遺症は彼を重度のアルコール依存症へと追い込み、遅刻や無断欠場が度重なるようになり、26年の途中でついにカブスを放出される。

 その後、カージナルスでワールドシリーズ制覇に貢献し、20勝投手にも復帰したが、最後は古巣フィリーズで9試合に登板しながら1勝もできず、ユニホームを脱いだ。

 引退後は宗教団体などの巡業チームに加わったあと、浮浪者同然の生活を送り、その境遇を見かねた野球界の援助を受けながら、50年に63歳でその生涯を閉じている。

 そのアレクサンダーとともに、ナ・リーグ歴代最多の373勝を誇り、1905年のワールドシリーズで3試合完封勝利の離れ業でジャイアンツを世界一に導いたクリスティー・マシューソンも、第一次大戦の犠牲者だった。
 
 引退後レッズの監督を務めていたマシューソンは、アメリカの参戦により志願兵としてフランスに渡った際、訓練中に毒ガス兵器を浴び、その影響で肺結核を患って除隊後も入退院をくり返した。そして、25年10月、ワールドシリーズの最中に45歳の若さで亡くなっている。


 第二次世界大戦後の1947年、長く黒人選手への門戸を閉ざしてきた大リーグで、27歳のジャッキー・ロビンソンがドジャースの一員となり、初の黒人大リーガーが誕生した。この年、彼は初代の新人王となり、3年目には首位打者、MVPに輝いた。その活躍は、大リーグにおける人種の壁を崩し、その後、野茂英雄やイチロー、松井秀喜ら日本人選手の活躍にも道を切り開く役割を果たしている。

 第二次世界大戦で黒人をはじめ多くの少数民族系アメリカ人が従軍し、国家に忠誠を尽くしたことが、ロビンソンら黒人選手たちの大リーグ入りにつながったとの意見もある。ロビンソン自身、大戦中は陸軍に志願し、少尉の地位にあった。

 しかし、黒人選手たちが大リーグから締め出され、はるかに待遇の劣る二グロリーグでのプレーを長年余儀なくされたのは、リンカーンによる奴隷解放宣言以降もアメリカに根強く人種差別が残っていた影響にほかならない。ロビンソンは兵士として国家への忠誠心を示さなくても、その卓越した野球選手としての実力だけで、もっと早く大リーグでプレーする機会と権利を得て当然だった。


 2001年の「9.111同時多発テロ」のあと、米ニューヨーク州クーパースタウンにある野球殿堂は、二つの世界大戦や朝鮮戦争に従軍した殿堂入り選手たちのレリーフに記念章(エンブレム)を飾るようになった。ここで紹介した選手たちも、それぞれが参戦した戦争の印が飾られている。
 しかし、もし戦争がなければ、彼らが与えられ、磨きをかけた野球の才能によって、グラウンドで手にしたはずの本物の「勲章」が、その足跡に付け加えられたのは間違いないだろう (おわり)。



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