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1905年の早大野球部米国遠征メンバー
終戦記念日に合わせて、「靖国の“鎮魂”を疑う」と題し、以前別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を加筆訂正のうえ転載しています。今回は戦時中の野球に対する「敵性競技」視がどのように始まったのか、その経緯を探るエピソードの1回目です。 ********************************************************************** 軍国主義体制による野球への「敵性競技」視の発端は、明治維新からまもなく野球がアメリカから伝来したあと、学生野球を中心に隆盛期を迎えていた明治末期にまでさかのぼる。 1871年、大学南校(東大の前身)の米国人教師ホーレス・ウィルソンが野外遊戯として生徒に教えたのが日本における野球の起源とされている。 明治政府によって西洋式教育が導入され、大学南校や札幌農学校などの官立学校にも洋風校舎とともに「校庭(プレイグラウンド)」が設けられた。 維新まで、日本には武士が戦場で役立てるための武芸や、平安貴族が興じた「蹴鞠」などはあっても、人々が身分を問わず野外で「余技」「余暇」を楽しむ本格的な「身体文化」はほとんど存在しなかった。江戸幕府の「昌平坂学問所」や諸藩の藩校などの教育機関にも、現在の「校庭」に相当する施設も、それを利用して行なう現在のスポーツに通じる野外活動の習慣もなかった 校庭の利用法を生徒たちに教えるためにウィルソンは野球を伝え、東京大学のイギリス人教師だったF.W.ストレンジが1883年に小冊子「アウト・ドア・ゲームス」を著してベースボールやフットボールなどの球技や陸上競技を紹介した。 なかでもベースボールはめざましく普及し、明治中期には第一高等学校や早稲田、慶応などの学生野球が隆盛を迎える。 1905年(明治38年)、早大野球部は日本の野球チームとして初の渡米遠征試合を敢行した。早大野球部はこの遠征でワインドアップやスライディングなど最新の野球技術、グラブやスパイクなどの用具、練習方法などを持ち帰り、野球のさらなる普及・発展に大きく寄与している。 この遠征は日露戦争の真っただ中で、学校の内外から激しい反対があったが、明治政府の重鎮でもあった早大の創立者・大隈重信の意向で実現している。しかし、戦時下の渡米遠征試合に対する批判はその後も根強く残った。 1911年(明治44年)、「東京朝日新聞」が「野球ト其害毒」と題した22回におよぶ、いわゆる「野球害毒論」の紙上キャンペーンを行なう。 学校を中心に発展した日本の野球は、早慶戦の中止を招いた応援の過熱や、学生部員の学業放棄、非行、有力選手の獲得・引き抜き合戦など、現在の野球界にも見られる諸問題を引き起こしていた。
同時に、維新以来の急激な欧米化に対する、教育現場での反感も強く、のちに春夏の甲子園大会を制した和歌山中学(現・和歌山県立桐蔭高校)では、校長が命じた「野球禁止令」に反対した生徒によるストライキが起こっている。 東京朝日の「野球害毒論」は、教育界で顕著だった野球に対する批判を利用したキャンペーンで、「巾着切り(スリ)の遊戯」と酷評した新渡戸稲造(一高校長)をはじめ、乃木希典(陸軍大将・学習院長)や、当時の文部省普通学務局長、官学・私学の校長らによって、「野球の弊害」が盛んに論じられた。 しかし、彼らの主張の多くは、野球人気の過熱によって生じた前述の弊害を「(競技としての)野球そのものの害毒」にすり替えた観が強いものだった。米国での留学・在住経験があった新渡戸も、拝金主義や人種差別などがまん延していた当時の米国社会に抱いた嫌悪を、かなり直情的に野球の否定へと結びつけている。
また論者として発言した教育者の多くは、古武術を学校教育に取り入れることに肯定的だったが、これには「富国強兵」「殖産興業」のための人材育成を教育の目的としていた当時の文部行政が色濃く反映しており、文部官僚に従属的な教育者ほど、欧米から伝わったスポーツの持つ「遊戯」的な要素を否定していたことの表れでもあった。 また、このキャンペーンに、日露戦争の指揮官だった乃木を起用したことは、「害毒論」の背景に何があったかを象徴するものだった。「二百三高地で多くの日本兵が犠牲になったのをよそに、大金を費やしてアメリカにわたって野球にうつつを抜かしていた」という早大野球部に対する軍部の反感、さらには陸軍のトップだった山県有朋が大隈と対立関係にあったことが見え隠れしている。 結局、野球害毒論は、野球がすでに「国民的娯楽」として日本人に受け入れられていた社会的状況や、さらに東京朝日の系列紙「大阪朝日新聞」が全国中等野球選手権大会(現在の夏の甲子園大会)を主催するようになったことで下火になるが、それでも軍閥、文部官僚を中心とする教育界などに野球への強い反感は続いた(つづく)。
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