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「ベースボールと戦争」⑨失われた「時間」と「未来」(中)

2011年09月03日 | Baseball/MLB

(全盛期の数年間を兵役で失ったジョー・ディマジオとテッド・ウィリアムズ=左)


終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて「靖国の“鎮魂”を疑う」と題し、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を転載しています。今回は戦争によって失われた日米プロ野球選手たちの「時間」と「未来」についてのエピソード、その2です。

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 ベースボールの母国アメリカでも、戦争が競技と選手たちの運命を大きく変えてしまった歴史がある。

 

 1991年、米大リーグのオールスターゲームが、カナダ・トロントで開催され、ジョー・ディマジオ(元New York Yankees)とテッド・ウィリアムズ(元Boston Red Sox)が始球式を務めた。
 41年に、ディマジオが56試合連続安打、ウィリアムズが大リーグ最後の打率4割台である.406を記録してから、ちょうど50周年にあたる記念の年だったため、大リーグ機構が二人を球宴の特別ゲストに招いた。

 

 MLB史上、というより野球の歴史に残る金字塔を打ち立てた両者だが。その野球人生は、41年12月8日(アメリカでは9日)、真珠湾攻撃により日米が開戦し、アメリカが第二次世界大戦に本格参戦したことで一変する。

 

 翌42年のシーズンが終わると、ディマジオは陸軍に、ウィリアムズは海軍に入隊した。このときディマジオは28歳、三冠王に輝いたばかりのウィリアムズは24歳で、野球選手としてもっとも脂が乗っていた時期だった。

 

  ウィリアムズは故郷のカリフォルニア州サンディエゴに独り暮らしの母親がいたため徴兵猶予となっていたが、地元ボストンのメディアが「徴兵逃れ」と彼を非難し、心ないファンから自宅に偽の召集令状を送りつけられる嫌がらせを受けるなど、周囲からの圧力に耐えかね、猶予の返上に追い込まれた。

 

  結局二人は全盛期と重なる3年間を軍隊で過ごし、ウィリアムズは朝鮮戦争にも従軍して、都合5シーズンを軍隊生活で失っている。46年に復帰したディマジオは年を追うごとに故障欠場が目立つようになり、51年に36歳で現役を引退した。

 

 ディマジオの通算成績は打率.325、389本塁打、1537打点。ウィリアムズは.344、521本塁打、1839打点、メジャー史上、ロジャース・ホーンスビーと並んで二人しかいない三冠王2回など、それぞれ数多くのタイトルに輝いているが、兵役によるブランクがなければ、ディマジオの本塁打数は500本に達し、ウィリアムズは3度目の三冠王や2度目の打率4割、さらにはタイ・カッブの通算安打数4191本やベーブ・ルースの生涯本塁打数714本の更新も夢ではなかっただろうといわれている。

 

 また野球と戦争にかかわる出来事としては、MLBやマイナーリーグの選手たちが兵役に取られ、また戦争によって野球全体への関心がるのを危惧したオーナーたちを中心に、映画『プリティ・リーグ(A League of Their Own)』のモデルとなった「全米女子プロ野球リーグ(All-American Girls Professional Baseball League= AAGPBL)」が1943年に旗揚げしている。

 

  兵役免除こそなかったものの、戦局が有利だったことや野球がアメリカの国技だったこともあり、第二次世界大戦では選手が激戦地に送られて命を落とすことはほとんどなかった。日米開戦直後、大リーグのランディス・コミッショナーがフランクリン・ルーズベルト大統領に戦時下の大リーグ試合開催の可否を尋ねた書簡に対し、大統領は「戦時下の国民には平時以上に娯楽の機会が与えられるべきで、野球を続けることはわが国にとって最良の選択」だと返書を送っている。

 

 それでも、戦場で野球生命にかかわる深い傷を負った野球人は存在した。

 

  日米開戦前夜、米サウスカロライナ州の大学野球部に在籍していた左腕投手ルー・ブリッシーは、その才能をPhiladelphia Athleticsの名監督コニー・マックに認められ、大学卒業後の入団が内定していた。しかしアメリカの本格参戦で陸軍に志願したブリッシーは、44年12月、イタリア戦線での戦闘中にドイツ軍の砲撃を浴びてしまう。九死に一生を得たものの、ブリッシーは左すねを粉砕骨折する重傷を負った。

 

  ブリッシーは陸軍病院で23回におよぶ大手術を受けたあと、負傷から2年後の46年12月にようやくAthleticsと契約し、翌年9月にはメジャー昇格を果たす。48年に14勝、翌年も16勝をあげ、オールスターゲームにも出場したが、やはり戦地で受けた傷のダメージは大きく、通算44勝48敗、防御率4.07で、53年に現役を引退している。

 

  メジャーで半世紀にわたって監督を務め、歴代最多の3731勝をマークし、Athleticsを5度ワールドシリーズ優勝に導いたマック監督は、ブリッシーを初めて見たとき、かつて自身のもとでプレーし、通算300勝をマークした大投手レフティー・グローブの再来と絶賛した。

 

  大きなハンディを背負いながら二度の二ケタ勝利をあげたブリッシーだけに、もし戦争がなければ、おそらく野球殿堂入りクラスの成績を残したに違いない(つづく)。

 

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