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「孤高のパイオニア」逝く

2006年01月02日 | Baseball/MLB
最後にお目にかかったのは、5年前だったろうか。
ベースボール・マガジン社から依頼された仕事で、1982年にセ・リーグで優勝した中日ドラゴンズについての記事を書くため、目黒雅叙園のコーヒーショップで2時間ほど、当時の監督だった近藤貞雄さんにお話を伺った。

1998年の晩秋、当時の「週刊ベースボール」編集長Tさんから、新年号用のノンフィクションを依頼された私は、すぐに近藤さんをテーマにしたいと提案した。その年、日本シリーズを制した横浜ベイスターズの監督は、中日ドラゴンズで投手コーチだった近藤さんのもとでプレーし、その後、投手コーチとしてもコンビを組んだ権藤博氏であり、MVPに輝いた大魔神こと佐々木主浩は、「投手分業制」のパイオニアとも言うべき近藤さんの「集大成」とも呼べる存在だった。編集長のご了解をいただくと、すぐに近藤さんに電話をして時間をいただき、名古屋のホテルで待ち合わせて、2時間ほどインタビューをお願いした。99年の新年1,2号に前後編に分けて、そのノンフィクション「孤高のパイオニア・近藤貞雄」は連載された。99年の年明け早々、近藤さんは投手分業制を定着させた功績などが認められ、競技者表彰で殿堂入りを果たした。同年7月、西武ドームでの表彰式でささやかながらお祝いの品をお渡しできたのは光栄なことだった。

さらに2000年、私は近藤さんへの長時間インタビューをもとに、「近藤貞雄の退場が怖くて野球ができるか」を上梓したが、これが共著とはいえ、「上田龍」の名前が初めてクレジットされた単行本となった。この本のための取材は、前記の雅叙園ティールームで合計数十時間にわたって行なったが、コーヒーが冷めるのも忘れて、近藤さんと私が口泡飛ばしながら野球談義にふける姿を、さぞかし周囲の人は不思議な光景として見ていたことだろう。

近藤さんは、1925年生まれの大正男。軍隊経験もあったが、しかし、およそ日本のスポーツ関係者に多い「体育会系体質」とは無縁、というよりもそれを嫌っていた人だった。

思い出は尽きないのだが、とにかくあまりにも突然の訃報で、呆然としているのが実情である。近年、ご健康がすぐれないとは耳にしていたが、70代半ばを過ぎても背筋を伸ばし、かくしゃくとしていた姿しか記憶にない私にとって、近藤さんとの「別れ」はやはり想像の範疇を超える出来事だった。

マスターズリーグの監督を務めていたとき、なぜ陣中見舞いができなかったのか、今はそれが悔やまれてならない。

私にとって、ベースボールの、そして人生におけるかけがえのない「師」と言うべき人を、今日、失ってしまった。

心よりご冥福をお祈りいたします。


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