県道77号線(行田蓮田線)を上り、川里を過ぎて鴻巣東部を走ると、免許センター過ぎたころ「笠原」という交差点が見えてくる。鴻巣市内の神社は多数あるが久伊豆社は数少なく2社のみである。
流造りの拝殿屋根は多くの久伊豆神社と同様のつくりであるが、地名の笠原については古い記述が残っている。
「日本書紀 」安閑天皇元年(466年)閏12月条に笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵が武蔵の国造の地位をめぐり争ったという記事がある。笠原直使主は埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と考えられていて、当時の遺構はないものの古い開発地であったとされる。
「吾妻鏡」建久六年(1196)には源頼朝の奈良東大寺供養に従った髄兵の中に笠原六郎の名が見え、更に正治二年(1200)の条には源頼家の鶴岡八幡宮参拝に従った奉公人として笠原十郎左衛門尉親景の名が記される。何れも笠原の名を持つ武士と考えられ平安末期から中世にかけて南北埼玉郡に勢力を誇った武士団である野与党に属すると推察される。
久伊豆神社は一般に野与党や私市党(きさいちとう)の共通の祖先神と考えられていて、その分布に関しては、武蔵国においても元荒川沿線に多く分布し、氷川神社と鷲宮神社の勢力圏の間を縫うように分布するのが特徴である。
主祭神は大国主命で中央に久伊豆社、右手に熊野神社、左に菅原神社を合わせて祀る。
内陸部の特徴である稲作中心の農業地帯であったが、大正期まで度々干ばつに見舞われることが多かったことから、雨乞い神事が盛んにおこなわれていた。七、八月ごろ年番数名が板倉の雷電様に代参し「お水」を竹筒に入れて待ちかえったという。まず神社の本殿前に「お水」を供え、神職による祈祷の後、境内の御神木にかけて降雨を祈念する。そののちたらいに張った水を村の若い衆が通行人にまでかけて大騒ぎし、終わると「お水」を地元の田に持ち帰って笹で振りまくと二、三日のうちには雨が降ったという。
また厄除け神事として「お獅子様」があり騎西の玉敷神社から獅子を借り、家々を廻って祓うという。騎西の玉敷神社は古くは久伊豆大明神と呼び、久伊豆社の総本社と考えられている。
また氏子の間では風邪を引いた際久伊豆社に参ると治ると伝えられてきたという。
道を隔てた東側には明治期まで別当として栄えた真言宗東光寺が今も多くの檀家を抱えて建っている。
神社入り口に建つ村社社名碑は国学院大学学長を務めた、玉敷神社宮司河野省三氏の揮毫である。(昭和十一年)