福川は深谷市岡付近から東へと注ぐ一級河川で利根川後背沿いにその流れを増してゆく。北河原用水、酒巻導水路を分岐して行田市内酒巻で利根川に合流する。自然合流ではなく福川水門が設置されている。
現在も使用されるこの大型の水門は利根川の逆流を防ぐ働きがあるという。桜の咲くこの時期には堤を菜の花が覆いまるで黄色い絨毯が敷き詰められた景色が広がっている。
春の蓬摘みの姿も見られる風光明媚な場所ではあるが、利根川、福川の合流するこの地は古くから治水の歴史と悲劇が交差する自然の厳しささらされた土地であったという。福川を下って中条方面には今も中条堤が残されていて、江戸期には江戸を洪水から守るために、堤の一部を狭窄状にし、増水時にはわざと広域に水を広げることにより周辺区域の治水の役割を引き受けてきたという。(中條堤と治水の歴史)
現在の水門の上流300m付近には大正期に建てられた福川樋門の碑が残っている
東京湾から157Km、約100マイルの水門が建つ福川には岸辺に小さな小屋が建っていてかつては四つ手網漁がおこなわれていた。小屋は昭和20年代に建てられて、春と秋に鯉やフナなどを捕っていた。
網には様々な魚が掛かり、時には亀もかかったそうだ。
昔とある長者が川遊びをしていると一匹の亀が嚙みついて離れない。仕方なく家まで連れて帰ると、長者は亀を柱に縛り付けてしまった。
暑さで弱ってゆく亀を見た女中のお福は憐れんで水をかけてやった。すると元気を取り戻した亀は網を切って逃げていった。
数日後お福が川で洗濯をしていると助けた亀が現れる。見ると口には金を咥えているではないか。亀はそれをお福に渡して帰っていたという。
この話はたちまち巷で評判になって、亀はきっと川の主であったであろうと人々は語り合い、福を授けた川としてこの川を「福川」と呼ぶようになった。(「妻沼町風物史話」より)
川や海、沼など水に纏わる逸話や伝承は各地に多い。時に動物を交えて時の風習、習俗、後世へ伝えるべき事柄を伝承として残している。
堤に広がる菜の花の美しい景色とともに私たちの次に世代に残してゆくべきものだろう。