稲荷山古墳です。古墳の上に稲荷神社があったことに由来します。学校の教科書にも常に記載がある、もっとも有名な古墳です。5世紀後半の築造で、古墳群のなかでも古い部類になります。昭和43年の発掘調査で埋葬施設が発見され、さまざまなな出土品が見つかりました。一部が崩されていたことを理由に発掘されましたが、埋葬施設は未盗掘だったと言われます。礫槨と呼ばれる埋葬部分の上に稲荷神社があったため、賊が入らなかったのではないかと考えられています。また、鉄剣の出土は昭和43年。銘文の発見はその10年後昭和53年です。そう、出土当時は銘文には勿論気づかす、保存処理のため錆びを落とす過程で、X線をかけたところ115文字の輝く金錯銘文が浮かびあがったそうです。発見場所は奈良県でした。発見した学芸員は飛び上がって驚いたことでしょう。
辛亥の年は471年とされ、オワケの臣。ワカタケルの大王に仕えた事が記されています。歴史の教科書ではこのワカタケル大王を21代雄略天皇として大和政権の支配がここ武蔵国まで及んでいたとされています。雄略天皇は古事記、日本書紀に記述があり、また中国の『宋書』倭国伝に遣いを送った「倭王武」とされます。(この送った年が478年)
古事記が記された250年も前の時代、今から考えると、1500年以上前の時代にの日本のことがはっきりと刻まれています。博物館でみた実物は本当に輝いていました。稲荷山古墳山頂です。実際の礫槨がどの位置から出土したのか展示がされています。竪穴式石室であったと説明がありました。礫槨は古墳中央部ではなく、端の方にあったとされます。近年の調査で更に埋葬施設がある可能性も指摘されています。古代史跡研究も日々進化しているのです。最後に将軍山古墳です。全長90m。稲荷山を一回り小さくした形です。六世紀後半の築造で、稲荷山と100年違いますが、構造はそっくりだそうです。平成9年に復元され、石室内部を見せるよう展示館がつくられています。子供の頃にはなかった施設で初めて見ることができました。噴丘の崖の断面が見れ、また石室は再現ですが、ひいてある石など実物です。千葉の房州石が運ばれてきており、支配勢力の広さを表しています。
半日の見学でしたが、改めて行田の歴史の長さに直接触れることができました。グループ研究の題材は市内の神社の系譜に決まり、帰りには前玉神社に参拝。田島宮司に夏休みに正式参拝後、神社についての説明をいただけるようお願いして、御朱印をいただいて帰りました。明日は水無月の大祓。そして初山を迎えればいよいよ七月です。
辛亥の年は471年とされ、オワケの臣。ワカタケルの大王に仕えた事が記されています。歴史の教科書ではこのワカタケル大王を21代雄略天皇として大和政権の支配がここ武蔵国まで及んでいたとされています。雄略天皇は古事記、日本書紀に記述があり、また中国の『宋書』倭国伝に遣いを送った「倭王武」とされます。(この送った年が478年)
古事記が記された250年も前の時代、今から考えると、1500年以上前の時代にの日本のことがはっきりと刻まれています。博物館でみた実物は本当に輝いていました。稲荷山古墳山頂です。実際の礫槨がどの位置から出土したのか展示がされています。竪穴式石室であったと説明がありました。礫槨は古墳中央部ではなく、端の方にあったとされます。近年の調査で更に埋葬施設がある可能性も指摘されています。古代史跡研究も日々進化しているのです。最後に将軍山古墳です。全長90m。稲荷山を一回り小さくした形です。六世紀後半の築造で、稲荷山と100年違いますが、構造はそっくりだそうです。平成9年に復元され、石室内部を見せるよう展示館がつくられています。子供の頃にはなかった施設で初めて見ることができました。噴丘の崖の断面が見れ、また石室は再現ですが、ひいてある石など実物です。千葉の房州石が運ばれてきており、支配勢力の広さを表しています。
半日の見学でしたが、改めて行田の歴史の長さに直接触れることができました。グループ研究の題材は市内の神社の系譜に決まり、帰りには前玉神社に参拝。田島宮司に夏休みに正式参拝後、神社についての説明をいただけるようお願いして、御朱印をいただいて帰りました。明日は水無月の大祓。そして初山を迎えればいよいよ七月です。