蝶は青虫から蛹の時期を経て完全変態する。蛹の時には身体はアミノ酸レベルにまで分解するという。植物も種類にもよるが、それまでの地味な成長期から打って変わって、綺麗な花を咲かせ命を伝えて行く。このあたりは、同じ地球上のDNAからなる生命である人間も似ていて、13歳から22歳のころに身体の変化とともに、子供から大人へ変わって、親に全面依存していた存在から脱却していく。
今、自分の青春期を振り返ってみると、自分の身体の変化に伴い、たよる対象が、劇的に変化して来たんだなとあらためて思う。両親を中心とした依存や同一化の対象が、学友やクラブ仲間、勉強仲間と・・・いろいろなところに軸足が移ってくる。その中でも印象的なのは、信じる対象、信じる内容の変化だ。
私は幼児洗礼のカトリック信徒だったので、中学1-2年のころまでは教会にも行き神を信じていたが、3年くらいになると懐疑的になり、高校2年生のころにはカトリック教会には殆ど行かなくなった。科学万能主義(これもある種の信仰だと思うが)の世の中で、ちょっと宗教の話をすると変に思われたり、侮蔑される日本。その雰囲気は今でも確実にあり、あるいは輪をかけてきているところもある。私は今ではカトリックの信仰に戻ってるが、宗教から一歩身を引く多くの人たちの気持ちも痛いほどわかる(かつての自分もそうだったから)。
①宗教に根ざしているといわれる戦争やテロや殺戮の存在 ②証明されない見えない神仏を大切にすることへの不信 ③反社会的な宗教集団(カルト)の存在 ④宗教を信じている身近な人で、なんとなく嫌だと思う人がいる ⑤あきれるような腐敗や残虐な宗教の歴史 ⑤信仰をもって何が変わるかよく分からない ⑥宗教は時代と共に刻々と変わる要素もあるが、勉強不足からくる誤解・偏見(日本では比較宗教学的な文化がない)で宗教を決めつけてしまいがち ⑦宗教の必要性を日常の中では感じない ⑧倫理道徳に過度に縛られそうで窮屈な感じ・・・ 他にもあると思うが、こんな原因で母の信仰していたカトリックから距離を置くようになった。反動もあり東洋の思想が好きにはなった。とはいえ、あの世や神仏を完全否定することもなく、我が青春は次の成年期に移行したように思う。
ただ、信仰に関しては、いくつかの出合いのチャンスがあったとも思う。私の青春時代は結構激しい学園紛争などの政治の時代だった。その中での悩みなどを身近な宗教人に尋ねれば変わったかもしれながったが、若気のいたりというか食わず嫌いで殻を破れなかったようにも思う。厳しい現実の中では、やればできるのに萎縮してしまったり、反対に、よせばいいのに無茶なことをする愚もあった。今でも同じようなところがあるが、青春時代は輪をかけてそうだったように思う。
神仏という揺るぎのないものへの信頼感・信仰の問題もあるが、今考えると、自分を含めて人間という不完全で揺らいでいる存在への対応も青春時代の大きな課題だったように思う。不完全なものへの愛の訓練というのだろうか。そうした、人生に価値を見出すために身に着けるべきことは、信仰とは別のように見えるが、信仰の基礎であることは間違いないと思う。自分をある程度信じたり、他者をある程度信じたりすることを学び始める。不完全なものに対する信頼というべきか。不完全な存在(自分を含め)を慈しみ愛していく。その訓練の時期の始まりが青春時代だったかもしれない。
青春時代を考える 2/10
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