イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

縄文時代を歴史小説の手法で表現してみて・・・!(思考 4/10)

2016-11-14 | 第一章「意識と知覚」

 思考とはなんだろうか?先人の幾つかのとらえ方があったが、私はまずは時間と空間がかなり重要な働きをしていると思っている。しかし、それだけでない要素もあるようだ。

 さて、私は生き甲斐の心理学を学んで、7-8世紀の古代に興味を持ち、結構沢山歴史小説を読んだ。歴史小説は人間とは何かを教えてくれる枠組みの一つだと思うが、それは時間と空間そして人間関係(系図に代表される)から成り立つのだと思う。そして、その情報がたくさんある現代、近代、近世、中世・・・は沢山の素晴らしい小説が書かれてきた。しかし、古代になると、限られた人となり、古墳時代、弥生時代となると、激減する。そして、縄文時代は?

 縄文時代はまず時間が難しい。土器編年でいろいろ分析されているが、同じ縄文中期の遺跡としてもAの遺跡とBの遺跡を絶対的な時間尺度でつなげることが簡単ではない。これで、歴史小説を書いても気持ちが悪く科学的でない?ということになる。

 次に空間だが、これも貝塚の研究者などで進んでいるように思うが、基本的に自分の興味のあるエリアに限定されてしまう。全国のある時期の日本地図などは実に難しい。もちろん、国土地理院の防災地図から縄文海進をある程度推測できることなどできるが。実際は日本は地震国で地殻変動が激しい。

 そして、人間関係だが、歴史小説の定番の系図など全くないので、推測でしかできない。しかも双系社会なのか女系社会なのかなど基本的なことも正確にわかっていない。

 したがって、おそらく沢山の人が縄文歴史小説の可能性を考えたと思うがあきらめざるを得なかったのではと思う。

 しかし、時間も空間も人間関係も怪しいとしても、新たにもう一つ付け加えることで歴史小説ができるのではないか?それは、人間とは何かという実に不思議な次元だと思う。これは、宗教祭儀に使われた遺品。神話・伝承。土器などに描かれた図像もあるが、さらに同時代の世界的な様々な情報がある。臨床心理学、比較文化論や比較宗教学も大事な情報を与えてくれる。

 そして、もう一つは、世の中の多くの人は、縄文時代の人は大陸など、当時の他の文化圏など知ることは殆どないと考えるのが常識のようになっているが、これは大きな間違いだと思う。もともと人類は5,6万年前にアフリカを出立して世界に散らばった歴史をもっているのだから、当然ながら時間がかかったり、危険が大きいなどの面はあるだろうが、少なくとも世界の情報はかなり共有されていたとみるべきだと思う。そうすると、いろいろな可能性が見えてくる。そして、どのような人間観を持っていたか・・・これを中心にすると、意外にも私の拙い経験だが100、000語以上の小説が書けたのである。

思考 4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 

 


健康診断で死を想う! (思考 3/10)

2016-11-12 | 第七章「光と復活体」

 この9月の終わりころから約一ヶ月、縄文小説の完成を目の前に特別な経験をした。それは、8月に受診した健康診断の結果がでてきて、肺に影があり要精密検査と診断されたからだ。私の父は60才台で肺がんに罹り亡くなっていることもあり、知ったときはショックであった。大病院に行くとレントゲンで簡単に診断があり、数週間後にCTで調べるとのこと。問題がない可能性もあるが、肺がんの可能性もあり、その場合は直ぐに手術をしなければならない・・・とのことであった。

 ただ、20年前にも肺に影があり、CTを撮り異常がなかったこともあり、また、健康診断で要注意と宣告されても9割以上は統計的にガンでないということもあるので、気をとりなおし、これからCT検査の数週間後までに集中すべきことを考えた。ちょうど、縄文小説の完成が近かったこともあり、検査でガンであってもと絶筆???を覚悟で集中することにした。そうすると、本当に縄文小説以外は殆ど視野に入らなくなり集中できた。

 それだけ、縄文小説に対する思い込み?が大きかったかもしれないが、エリクソンの61才以上で発達するとされている、知恵。自己統御感、絶望感のセットで、今回のようなショックな話が出てきたとき、生き甲斐の縄文小説に思考を集中することで乗り越えることができるように思った。さらに言えば、この貴重な体験の時、聖書の中のヨブ記をまじめに読んだが、これもとても良かった。

 私の縄文小説では、主人公もそうだが、祖父母、両親、友人、子供・・・と沢山の方が亡くなる。なにも縄文時代だけでなく現代もそうだが、死はいつの時代でも意外に身近だ。メメントモリというラテン語があり〈死を想え〉という意味だそうだが、良く生きる上で死を想い、また生き甲斐をまじめに考えることは大事だと思う。そうすれば、死は絶望感の暗い側面だけでなく、考え方次第で乗り越えることもできるように思う。

思考 3/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


わけのわからない人 (思考 2/10)

2016-11-07 | 第一章「意識と知覚」

 こんどの縄文小説のなかでは28名の主な登場人物がでてくる。時代小説の体裁をとっているので、そうなってしまった。成育史、時代背景、年齢、・・・それぞれ違い、いろいろな人がでてくる。そして、各々状況に応じて思考・感情・行動を回して小説を動かしていく。

 この中で、生き甲斐の心理学を学んでてよかったということがある。登場する人物は私が一度も体験したことのない時代、縄文時代の人であり、その習俗、宗教、思想は今の我々とかなりかけ離れているように見える。しかし、ロジャースのパースナリティ理論、エリクソンのパースナリティ理論の世界から、人格形成の仕組みは現代人と共通と仮定しているので(多分、今も縄文時代も人間の本質はさほど変わっていないと考えても問題がないように思う)、問題なく小説がかけるのである。

 例えば、今も昔も「わけのわからない人」と乱暴にも語られる人がいる。ある意味馬鹿にされたり、恐れられたりする人なのであるが、不思議な行動をする人には、それなりの理がある(個人自身の内部的照合枠)というロジャースの命題7があるが、これを知っているか否かで「わけのわからない人」に対するスタンスが変わる。私にとっては生きる上でもとても重要な命題だと思う。

 それは、「わけのわからない」のは、本人ではなく他者にとってであり、本人は決してそうではないということだ。他者を安易に解釈するのは意外に危険であるという警告でもある。

思考 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!


自分は何を考えているのだろう?(思考 1/10)

2016-11-05 | 第三章「無意識の世界」

 「森さん、何で縄文時代に興味をもったんですか?」

 縄文小説を書いているといろいろなところで言っていると、時々このような質問を受ける。縄文時代に関心を持つ人は多いと思うが、縄文小説にまで書くにいたるには、余程のことがあるのだろうと推察していただくのだろう。しかし、これがなかなか答えられない。かつて、企業でマーケティングをしていたころは、自分のテーマであれば、二時間でも十分でも一分でもきちっと語れるよう指導を受けたように思うが、テーマがテーマなのだろうか、混乱してしまう。

 しかし、二時間でも十分でも一分でもきちっと語れるということは、ある意味真理であり、私も縄文小説を書きながら、あるいはプロローグを書きながら何で書いているのか、何を考えているのかを必死で考えている。そして、恐らく約2年の歳月を経て出版するころにうまく語れるようになるのだと楽観している。

 自分が何を考えているのはっきりわからないというのは、ちょっとばかり情けないところであるが、生き甲斐の心理学を学んでいくと、まあそうだなと理論的にも納得できるようになる。

 本格的な小説をかくということは、思いのほかたいへんなことで、自分のカバーしていなかった部分、考えてもいなかった部分に思いを寄せなければならないことが多い。その中でまとめていくのだが、まとまりにくい部分や逃げ出したい部分といったものにどう対処するかは実に心理学を学ぶ私にとって、客観的にも興味があることだ。思考の対象は、得意分野、まったくダメな分野、グレーな分野があるという感じであり、意識の世界だけでなく無意識の領域もあり、たいへんなようだ。

思考 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!


もう引越ししない、引越し好きの人のためのいとこ!(引越し 10/10)

2016-11-03 | 第一章「意識と知覚」

 今日の三日月撮りそこなってしまい、この写真は2011年の11月2日のもの。ごめんなさい。

 このところ天気もここ一つ、月を見ることが少なかったこともあり、今日の夕方の三日月はとても印象的であった。私の拙い縄文小説でも月は重要で、今日もいろいろ考えていたこともあった。

 さて、月の特徴で、月はいつも地球に一面しか見せていないということがある。ウサギの餅つきなど、そのイメージは変わらないというか、変わりにくいもののようだ。

 そして、この一面を見せる月のイメージで連想したのだが、父方のファミリー、母方のファミリーこれを自分の兄弟姉妹は同じように見ている。もちろん解釈等は違うと思うが。対象は共通だ。しかし、子供となると自分の知っている配偶者のファミリーと自分のファミリーを見ることになる。おそらく景色は微妙に違うと思う。

 さて、従兄弟(従姉妹)なるとどうか。オジ・オバは知っているが、義理のオジ・オバのファミリーはどうだろう。見えない部分がかなり大きくなる。そして、従兄弟(従姉妹)にとっても見えない共通でない私のファミリーが半分くらいある。

 その中にあって、今従兄弟(従姉妹)と交流を持つことに大きな関心を持っている。馴染みある世界を半分くらいあるのだが、交流を深めることで別の世界に触れることができる。へー従兄弟の従兄弟にこんな人がいたのか・・・とか。4代前に不思議な関係があったと驚いたり。

引越し 10/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!