イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

魂で感じる縄文の旅!(魂で感じる① 1/10)

2014-11-10 | 第十章「今ここでの恩寵」

 「生き甲斐の心理学」のU先生や学友の皆さんと、日本人の心を探索する旅をしてきましたが、最近は7-8Cの日本を越え縄文世界(3000年から15000年前)から現世人類が全てアフリカに住んでいたころ(5~6万年前から20万年くらい前まで)までのことに関心を抱くようになりました。

 今の日本人は世界中の人々の中で独特の特徴があり(汚れと禊、甘えの構造、恥、幽玄の美、侘びと寂、もののあはれ)、それが西欧文明で発達してきた臨床心理学で誤診されがちだとのU先生の経験から、素人ながら歴史の勉強も始めたわけです。そして、日本人の独自性、多様性を楽しみましたが一方、そればかりだと逆に大切な精神文化を失うようにも思えるようになってきたのです。

 例えば、余りに単純な一神教と多神教の比較論でキリスト教が日本に根付かないことを論じるとか、菜食主義でない仏教徒があたりまえの日本の仏教の独自性を殆どの人(私も含め)が考えもしないとか、本来4万年くらいの日本の文化を、せいぜい弥生以降の数千年の歴史でしか捉えないなど。これは一例で、私も人のことは言えないのです。しかし、最近の遺伝子科学の進歩を中心に、よく判らない問題が結構科学的に見直されるようになってきた背景が出来たようです。

 特に、私はキリスト教、カトリックの幼児洗礼を受け今まで生きてきたのですが、自分は日本人として何かおかしいのでは?と、どこかで思うような時があったわけです。しかし、縄文の勉強しはじめ理解を深めていくと、日本も独自の文化の古層に、西欧や中国、アメリカ大陸と精神的には同根の何かがあるように思うようになりました。

 これは、例えば宗教ですが、諏訪の土器の研究から、縄文中期に月の文化があり、それがカエルや蛇と結びつき描かれることがあるのですが、これと同じようなデザインが、西欧のドナウ川周辺の文化、中東、黄河文化、マヤなどにも観られるようです。そして、今読み始めているのですが、エリアーデの宗教学は、そんな日本文化を理解する上でもとても役にたつことを知りました。

  井戸尻考古館にあったデザインの近似性を説明した資料を見せていただきました。

 そして、この土曜から日曜も諏訪方面に小旅行を楽しみましたが、殆ど縄文の旅でした。今回は、博物館で土器等に触れるより、埋め戻されて特にへんてつもない場所かもしれませんが、祈りの場所(ストーンサークル等の聖地)や有名な住居跡の現地に行き、そこでアースフィーリングを五感を通して感じることを意識しました。

 山梨県の釈迦堂遺跡、長野県の井戸尻遺跡、原村周辺の阿久遺跡、尖石遺跡。そして、縄文遺跡とは少し趣が違いますが、今にまで、当時の文化を伝承する諏訪の祭り(諏訪市博物館)、諏訪大社の古層の神ともいえるミシャクジ社、そして神長官守矢資料館、杖突峠(残念ながら霧で景色が見られなかった)と回ってきました。縄文中期とすると、約5000年前、平均寿命25歳とすると、約200代前の祖先のころです。

 明日と明後日、二回に分けて旅のことを語ってみたいと思います。以下、予告編で写真を少し掲載します。

   釈迦堂遺跡

    井戸尻考古館

    尖石縄文考古館

    阿久遺跡

 杖突峠

    ミシャグジ社 神長官守矢資料館

魂で感じる ③ 1/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています! o(^▽^)o

 

 

 

 

 

 


自分の個性の美を発見する方法!(異文化と愛 ③ 10/10)

2014-11-07 | 第九章「愛」

 マッサンもウィスキー以外の道では、大混乱のようでエリーさんに頼りっきりのようだ。しかし、そのうちに好きな仕事を邁進するようになるのだろう。

 さて、普通個性の美は日本では何となく避ける話題のようだ。それは、自分の個性の美をだいたいの人が気づいていなかったり、過小評価していることが殆どだからだと思う。

 この10日間、人生で初めて個性の美をブログを通して集中的に考えてきた。そして、このテーマは、アイデンティティとか生き甲斐とかに関わる重要なテーマであると思うに至った。力不足であったが、最後に自分の個性を見つける方法(これは私にとってもとても大事)を整理してみたい(未完成だと思うが)。

 それは、米田彰夫さんの『フーテン性』*1の定義に隠れていた、個性の見方だ。フーテン性は次の二つから成り立つとしていらっしゃる。

 1.常識をはみ出した者。

 2.故郷を捨てた者。

 細かい言葉の定義は余り意味がないが、この二つをいろいろ思索してみる。自分にとっての故郷、それを捨てる時のこと。自分の常識とはなんだったか。そしてそれをはみ出すとはなんだったか。多分、この自問自答は大切な問いかけのようだ、一人で考えることで自分の個性の美に近づくことができるように思えてならない。

 そして、点数を自分なりに考えて、100点のころはいつだったか。0点のころはいつだったか。今は何点か?などを考えるのも新しい自分発見に良いようだ。

 最後にU先生の「生き甲斐の心理学」を深めるために、福祉業界で修業をし、その時知り合ったOさんのことを少し。自分の人生に大きな影響を与えた方は何人かいるが、個性の美とは何か。生き甲斐は何か・・・そんなことを教えてくれた恩人だったように思う。そのOさんが亡くなって一周忌のときに自費出版された本が今は自由にダウンロードできる。悔いのない人生とは何か。個性とは何か。福祉とは何か。そんな疑問に答えてくれる良い本だと思います。お時間があれば是非読んでください。

http://www.jswork.jp/dg/jsDBdatasearch.aspx?b=138

*1 米田彰男さんの『寅さんとイエス』からフーテン性の定義をお借りしました。感謝しています。

異文化と愛 ③ 9/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています! o(^▽^)o


見えないものを観るようにする!(異文化と愛 ③ 9/10)

2014-11-06 | 第九章「愛」

 4日は鎌倉の由比ヶ浜で綺麗な月を観たので、5日の後の十三夜の月が楽しみであった。そして、夜になり時々空を見上げたが、時々雲間から月が微かに観える程度、ちょっと残念ではあったが、見えにくい月に対する想いは高まり、微かに観えた時は嬉しかった。

 鎌倉で観た夕暮れ時の月(4日)。

  十三夜は残念ながら雲間にちょっと顔を出すくらい。

 さて、この「見えないものを観るようにすること」。これは、とても大切なことだと思う。特に、何かを信じると、人は観えるものが出来てくる反面見えにくくなることもでてくる。とても不思議な心の特性なのだ。少数意見を大事にする民主主義を私は愛するが、それは、こうした人の心の特徴から考えて合理的だと考えるのだ。頭がいいとか、そんな話ではなく観えたり観えなかったりする問題だからだ。

 自分のことを少し語ってみよう。10歳の時に海水浴で溺れたところを父に助けてもらったことがあった。そして、父が危険を顧みず救出したのだが、その時の父の愛は変な話だが、しばらく観えなかった。他人にははっきり観えていて、実の当事者が感じないということがあるのだ。もちろん、一時的な防衛機制とかも問題になると思うが、アイデンティティに関わる問題だと、ひょっとすると死ぬまで気が付かないこともあるかもしれない。

 職業を持つようになり、特定の組織に属したりし長年働いたりすると、やはり組織の文化(何かを信じるのだろう)の中で、何かが観え何かが観えなくなるものだ。これは、会社を辞めて初めて気づくことである(私の場合は2-3年はかかった)。もっと大きなこともある。宗教を信じて観えるもの観えなくなるもの。宗教というと怖がったり馬鹿にする人もいるが、そういう人も何かを信じていると思う。科学教とか・・・人間は何かを信じないと楽に生きていけないからだ。宗教や思想というと、その言説に眼を奪われがちだが、心理学的に観えてくるもの観えなくなるものといった具合に捉えて実態を思索すると、初めて判ることもある。

U先生の生き甲斐の心理学を学んでくると、そういう現象たくさん知るようになり楽しくなる。そして、ヘンな心の視野狭窄にならないためにも「生き甲斐の心理学」はとても大切だと思う。

 この月も、月を愛でる習慣は日本では一般に平安時代からだというようなことが言われているが、実際は縄文土器の研究や神話などから類推して、恐らく日本では一万年以上の歴史があるように思えてならない。死と再生を絵に描いたように繰り返す月は、生命を考える上でも貴重であり、当然ながら人類の歴史では大切にされたと思うし、日本人が食生活の関係で定住するようになる縄文時代に暦としても大切な働きをしたに違いない。

 月の文化は日本人の心の奥に深く浸みこんでいるのだと思う。

異文化と愛 ③ 9/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています! o(^▽^)o


同世代の文化を意識してすっきりしよう!(異文化と愛 8/10)

2014-11-05 | 第九章「愛」

 マッサンは、ちょうど私の祖父母の世代。もう無き祖父母を想い、その影響を受けた父母のことを思索する上でとても役立つ。時代の影響を同世代は同じように受け成長するので、臨床心理学的にも興味ある分野なのだ。

 私は1951年生まれであるが、この歳は朝鮮戦争のまっさかり。朝鮮戦争の実態は殆ど知らなかったが、そこに投入された爆弾や大量の死傷者数から日本の敗戦以上の悲惨が隣りあったようだ。そんな不安の時期に生まれたことは、やはり生育史上に大きな影を落としていえるのだろう。また、この歳は日米の安保条約の締結の年である。そして、1960年、1970年と青少年時代に政治で揺れた世代としても特徴的だ。

 だからだろうか、同窓会などで会う同世代は、どこか似ているようだ。自分たちには何か心地よい空間なのだが、他の世代からは独特の雰囲気をもっているようにみられるようだ(他の世代も同じことが言えるのだろうが)。そして、それは人格形成の大きな傾向を知る上で貴重で、またその性格は個人に起因するというより時代そのものなのだ。

 自分のことを知ることをU先生の「生き甲斐の心理学」は大切にするが、その中で、自分のある変な特徴が何に起因するのか分らないことがある。そんな時に、同世代の傾向、そして生まれた時の時代を勉強すると、眼が開かれることがあるようだ。

 同世代の飲み会で、そんな同世代の特徴を話題にしてみたら盛り上がるかもしれない。共通の長所をほめたたえ、共通の不安解消法も発見できるかもしれない。まあ、そんなことをしなくても同世代の友達は貴重だと思う。

*写真は昨日の由比ヶ浜海岸。夕焼けがうつくしかった!

  

異文化と愛 ③ 8/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています! o(^▽^)o

 


暗い感情を光に変える日本の詩歌!(異文化と愛 ③ 7/10)

2014-11-04 | 第九章「愛」

 昨日は府中で勉強会をした。楽しい縄文の話題も沢山でたが、実践的なフォーカシングについても学びを深めた。

 フォーカシングは、自分の問題を整理し、その中で暗い感情を抽出し理想と現実のギャップを縮めていくカウンセリング等での手法だが、自分の問題を知的に理解するだけでなく、感情を実感していく手法ともいえる。

 マッサンも就活しているが、さまざまな防衛機制を働かせ暗い感情に向き合えないのが問題のようだが、実際窮地にたつと、自分の例を考えても意外にこうしたパターンは多いようだ。真の問題を回避しているので、なにかぐるぐる回り進展がみられない・・・それに対して、暗い感情をきちっと見出し、腑に落ちる方向を見出すにはフォーカシングはなかなかだ。

 しかし、戦後欧米で研究されてきたフォーカシングだけでなく、縄文の伝統をうけた身近な歌や俳句が、それに似た機能を持っている。非常にコンパクトな表現の中に、実に見事に暗い感情を表現し、その深みから新しい解決への糸口を見つけていくのだ。

 さて、昨日の勉強会では、自分の感情を表現するときに、オノマトベ(擬音語、擬態語)を使う積極的な意味に気が付いた。最近、言葉と五感の関係を意識して考えることが多いが、オノマトベはその決定打のような感じがしたのだ。ヒューヒューと隙間風が吹き抜けるような不安感・・・など、ヒューヒューがとてもリアルで共感をさそう。こうした言葉の中には、縄文以前の起源をもつものも少なくないだろう。そして、実に表現がピタッとくる。

 オノマトペを使った沢山の日本の詩歌があるが、今朝、柿本人麻呂の百人一首の歌をふと思いだした。そして、いろいろ思索してみたが実に良くできている。

 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 (あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む)

 訳:夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。

 以上、Wikipediaより

 表面的なオノマトペとしては、「ながなが」くらいかなと思うが、この歌の基調となる「・・のー、・・のー」はアイヌ語のoh-or(時間的に長い)という言葉に繋がるようでもある。国語の授業でならう、枕詞や序詞も有名だが、隠れた「の」も何かオノマトペ的であり、何重にも長いが表現されているようだ。そして訳では助詞等に軽く扱われ無視されているが、万葉仮名では「かも」は鴨と漢字表記されていて、鴨が頭を羽に埋めて水上で静かに寂しく寝ている姿が目に浮かぶようである。それが、何か苦悩の中で観える朝の光のようで、実に美しく感じてしまう。

 歌が、五感を揺り起こし、魂まで響き渡るような名歌だなと、つくづく感じ入った。

異文化と愛 ③ 7/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています! o(^▽^)o