イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

競馬場花火と雷のコラボを楽しむ!(ストレス曲線をバネに ② 4/10)

2014-07-21 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

昨晩は、府中のSさんのお誘いもあり、東京競馬場の花火大会を近くの特養M苑の屋上でしっかり鑑賞させていただいた。当日はすもも祭りもあったので大国魂神社周辺を散策、ケヤキ並木もなにか元気そうで、本格的な夏がまじかだなと思った。

     

そして、夜となると激しい雷雨が。花火大会は小雨なら決行ということを聴いてはいたものの、どうなるか心配。ちょっと小ぶりになったので、府中のボランティア仲間のSさんと特養M苑に。かつて3年くらい福祉業界で修業(仕事)をしたこともあり、現場の方々と接すると何か燃えるものを感じてしまう。ときおり激しくなる雨に、花火大会が開催されるか否かはらはらしたが、花火大会は決行になる。

      

雷と花火のコラボ!なかなか迫力のある初めての体験。初めてお会いした方々との楽しい会話もあり、生ビールもあり、府中の有意義な半日は夢のように過ぎて行った。

帰路は京王線が落雷の為に止まっていたこともあり、初めてのルートで帰るなどすこし大変であったが、雷と花火のコラボの感動で、逆に帰路が新鮮に感じつつ楽しんで帰らせていただいた。

今の世の中、高齢社会の到来もあり身近な人の介護や介助で、過度のストレスを感じている人も沢山いる。私も、その片鱗を経験したこともあるが、「生き甲斐の心理学」の次の知恵はとても役に立つ。

 幸福と一般的にいわれるが、幸福の条件と幸福感を別のモノとして意識する重要さである。幸福の条件は、自分のもつ理想を意識して、現実を合わせて行くこと(例えば進学や就職など)、もうひとつの幸福感は五感体感で感じる瞬間的ともいえる幸福感である。ギスギスとした日常を送っていると、とかく幸福の条件が頭を離れなかったりするが、幸福感は忘れがちになる。

 こんな時に五感や体感を楽しませてくれる花火大会などは、良い幸福感のチャンスである。

 少年のころに、伯母の家によく行ったが、その時、西武園で花火大会を観たときの感動が、心をよぎった。伯母はもう天国に行ってしまったが、この花火大会に稲妻として登場と共に楽しんでくれたかもしれない。

ストレス曲線をバネに② 4/10

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大栗川が二つに分かれるところで妄想する!(ストレス曲線をバネに ② 3/10)

2014-07-20 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 今朝、近くの大栗川が太田川と別れる堀之内近くに寄った。このあたりは、東京の郊外として住宅地が中心であるが、縄文時代を中心に沢山の遺跡がある地である。世が世であれば、関東の中心といっても良かったかもしれないと朝っぱらから妄想たくましくしていた。

 しかし、写真の大栗川が太田川と分れる地点は何か神秘的である。

  

一昔前までは、写真のように防災のための工事もされていなかったので、土地の方は川の氾濫に悩まされていたものの、豊かな自然に恵まれていたようだった。それは、今となっては無理な話であるが、川が分れるというか、統合されるというか、とても象徴的な気がする。

 人生では、さまざまなことがあり、悩んだすえに何かを選択することがある。それが良かったのか悪かったのかは、身体が一つの人間であるため、二つの経験ができないので永遠の謎である。

 どんなことでも、否定や批判をすることは意外に簡単である。そして、その中で一つの選択をすることは、何なのだろう。

 よく判らないが、間違った選択をするにせよ、何かスパイラルにでも上昇していく感覚が大事な気がする。

ストレス曲線をバネに② 3/10

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毎日、地に足をつけて歩くこと!(ストレス曲線をバネに ② 2/10)

2014-07-19 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 半年ぐらい前から、歩くことを意識するようになった。すると太極拳のA先生から、急に褒められたりした。足腰が鍛えられると身体の軸が決まるところがあるようだ。さらに、精神的にも何か違う。歩くときに不謹慎かもしれないが、ロザリオの祈りをとなえる効果もあるのかもしれない。

 さて、歩くことをつらつら考えると、私は幼稚園から小学校、中学校、高校、予備校と歩いて通学した。片道1~3Kmくらいなので、結構な距離ではあるが、歩くことで、地に足をつける時間を持つことで健康を保ったように思う。時には友達と寄り道して帰ったり、思いがけず某先生と話をしつつ学校に登校したこともあった。旅は道連れではないが、歩くことで予想外のコミュニケーションが得られる。

 今となっては、畏れ多い某坂を上り下りしたり、御濠の美しい景色を眺め、五感と体感を癒すことで、自分のこころを整えてきたのだろう(U先生の生き甲斐の心理学の学びでも重要なポイント)。

 今日は「花子とアン」は白蓮事件の衝撃の部分に迫った。U先生もブログでおっしゃっていたが、人は時代の影響を非常にうける。白蓮事件も白蓮さんも当然関わっているのだが、大正10年という時代そのものの噴出のようなところがある。ドラマでは恐らく殆ど触れないとおもうが皇室の問題や政治の問題も背後にあり、原敬暗殺事件も不思議にマスコミでは白蓮事件に影に消えてしまったところもある。大きな時代のうねりで人の人生、周りの人の人生も変わってしまう。

 本人に全て責任を押し付けるというより、時代に責任の大半があることも多いように思う。私の大叔父さんの台湾での芝山巖事件も、きっとそうだったと思う。

 最後に、今日の「花子とアン」の伊藤伝右衛門の孤独感を想った。伊藤伝右衛門の愛の原形。それから、白蓮の愛の原形。恐らく文化も生育史も違う二人にはお互いの愛の原形を理解する余裕がなかったのだろう。そして、辛い孤立感を乗り越えられなかったのだろう。十字架の贖罪のキリスト教を信じる私にとって、愛の多様性の問題は実に生涯の課題でもある。自分は自分と割り切りつつ、割り切れない愛についていろいろ考えてしまう。今日も歩きながら祈ると何か悟るだろうか?

 写真は先日、鎌倉近辺を散策した時のワンショット。30分くらいの散策は楽しかった。

ストレス曲線をバネに② 2/10

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困難の中で心の自由を得ること!(ストレス曲線をバネに! ② 1/10)

2014-07-18 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 朝ドラ「花子とアン」もいよいよ白蓮事件に突入。これは大正10年のことだが、私の手元には大正4年発行の歌集「踏絵」がある。そして宮崎氏との出会い以前の悶々とした心の内を見事に表現している歌集だと思う。柳原白蓮さんの生涯はWikipediaなどで紹介されているが、そのうつうつとした気持ちは複雑で辛い生育史を考えると当然のようだ。

 わが魂は吾に背きて面見せず昨日も今日も寂しきかな

 世の中には苦悩ということがあると思う。自分のことを振り返ってもそういった時期はあった。努力して解決できる問題はまだいいが、他人が絡んだりして、まったく自力で解決困難な問題もある。

 こうした問題に遭遇して、一応問題が不思議にも解消した経験を考えると、それは心の持ちようが大きなポイントだったように思う。心優しい人(私も少しはそうである)は自他混濁の精神状況を起しがちで、その結果、自分の本音ですら観えなくなる。そして、自分の心の自由が、他人が奪ったわけではなくても消えてしまう。

 今の時代。周りを見回しても、自分の病気、家族の病気やトラブル、経済の問題、・・・様々なことに人は出会うようである。その中で、めぐり合う出来事を坦々と切り分け、受容しつつ(結構難しい)心の自由を保ち、飄々と人生を生き抜く人もいる。逆に、何かに囚われ自由を失い、どんどん呑み込まれるような人生を歩む人もいる。

 今日は、たまたま朝ドラの次にNHKの番組で渡辺和子さんが出演されていたが、大きな問題に遭遇したとき、自分は自分と割り切り、自分の役割に徹し、他者の問題を時に突っぱね距離を置く重要性もおっしゃっていたが、U先生の「生き甲斐の心理学」も同じようなことを大切にしている。物事の受容はなかなか難しいが、まずは、問題の切り分けが重要かもしれない。

 心理学者ロジャースの次の現象額的な命題は、自分は自分、他人は他人と割り切る根拠としても有名であるが、自分の軸をブレないようにするお守りのような命題として、私も大事にしている。

 「個人は自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界(world of exprience)に存在する。」

ストレス曲線をバネに② 1/10

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お墓参りに燃えてしまう私の傾向は?(ストレス曲線をバネに ① 10/10)

2014-07-17 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日は、東京では盂蘭盆の最終日にあたる。それで、久しぶりに母方のお墓参りに雑司ヶ谷へ。今までは、何となく行っていたが、今回は勿論墓前での祈りということもあるが、自分の祖父母と関わりのある個人の墓碑をたしかめ、年譜をより良くする目的もあった。今まで殆ど気にしなかった墓碑を丹念に見入ったりすると、いろいろ想像の羽を羽ばたかすことができる。

 さらに、雑司ヶ谷霊園の事務所でMAPをいただき、有名人のお墓についても調べたりした。これも、最近歴史に興味をもっているだけに祖父母等の時代を思い出したりしてワクワクしてしまう。

 そして、いつもは母方の墓参は雑司ヶ谷で終わるのだが、今回は、母方の祖父は養子にでたのだが、祖父の生家の墓地にまで足を伸ばしたのだ。そして、見事生家のお墓を発見し墓前で祈ることができた。さらに、お墓を丹念の拝見することで幕末期くらいの祖先まで、いろいろ知ることができた。お墓詣りがとても充実し、一日たった今でも何か怪しい?感じである。

 父方のお墓詣りは、毎年一ヶ月遅れの盂蘭盆に家族で祈りに行くのだが、今年はまだ日程が決まらないでいる。しかし、今度のお墓詣りには、明治に分家した曽祖父の実家、本家のお墓も訪ねてみたい。

 さて、一昨日は、つつじヶ丘でU先生の「生き甲斐の心理学」の勉強会があった。その時、いろいろ発見があったが、こうした自分のお墓詣りに執着するのも何らかの、傾向があるのだと思う。それは、エリクソンの分類から考えるとどのような傾向になるのか。身体からくる何かなのか・・・普段考えない自分の不思議な傾向を客観的に観るチャンスかもしれない。

ストレス曲線をバネに① 10/10

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