セイタカアワダチソウを最近良く見る。芒と一緒に咲いていることが多く、昔の日本の秋を知っている為か昔と変わったなとつくづく思う。ゴールデンロッドという典型的な帰化植物であり、見た目で花粉症と結び付けられるが無害だそうである。
川原が一面芒で覆われていると淋しいが、セイタカアワダチソウの黄色があると、違和感があるものの安定感も感じる。
この前川原で月見をしたためかもしれない。
セイタカアワダチソウを最近良く見る。芒と一緒に咲いていることが多く、昔の日本の秋を知っている為か昔と変わったなとつくづく思う。ゴールデンロッドという典型的な帰化植物であり、見た目で花粉症と結び付けられるが無害だそうである。
川原が一面芒で覆われていると淋しいが、セイタカアワダチソウの黄色があると、違和感があるものの安定感も感じる。
この前川原で月見をしたためかもしれない。
10月になると、来年の手帳が本屋さんに並ぶ。昔は、人に貰った手帳、書店でふと気に入った手帳で満足していたが、最近は拘りが激しくなった。
原因は40歳代後半に受けた、Franklin Coveyの「7つの習慣」の研修で、手帳に関する見方が変わったからだ。
自分にとって、その時の最も大きな変化点は・・・
①手帳をビジネスの道具として捉えるのではなく。自分の「生き甲斐」を中心に考え、仕事もプライベートなことも自分にとって重要なことを、一緒に手帳につけること。
②自分の生き甲斐=ミッションを、年に何回も見直す習慣をつけること。これは、現在、一学徒として学ぶ「生き甲斐の心理学」でも重要なことではないかと思う。
今の手帳を見ると自己嫌悪を感じた。その最大原因は自分にあるはずであるが、手帳のせいにして新しい来年の手帳を今日買った。
最近知人から紹介されて、「のだめカンタービレ」を娘からしっかり借りて読み始めている。あっというまに5巻まで読んでしまった。私は、本の感想を本を読んでいる最中に書く癖があり、割り引いて理解して欲しいが、なかなか爽やかで深い。
朝、散歩しながら、「のだめカンタービレ」とどこが繋がっているのかよく判らないが。ふとセルフコントロールという言葉を思いついた。セルフコントロールは山登りで言えば遠い頂を見るようなものであり、現実とのギャップは結構ある。セルフコントロールができる人は、私も含め結構少ないと思う。殆ど居ないかもしれない。しかし、自分の感情生活を見つめるという、セルフコントロールのための一歩は山登りの一歩一歩と同じように努力だけのもので、決して遠い存在ではない。
働けど働けど
わが暮らし楽にならず
じっと手を見る
石川啄木の有名な歌があるが、感情生活を見つめることは、人生を豊かにする上で重要で実りあるものだと思う。
今日は、知人から誘われて市民会館で開催される音楽会に行くことになった。会場に予想外に早く到着し、開場まで時間があるので、一人近くを散歩した。草木も楽しんだが、それにも増して秋空の美しさに目を奪われた。青い空に、素晴らしい白いすじ雲・・(写真)。
雲というのは快晴で殆どない雲量0%か、空一面雲に覆われている雲量100%の両極端が多い。しかし、この数日は秋の大気の絶妙なバランスで、雲が実に美しい。空の雲を見ていると、雲も人の生涯、心の動きと同様、同じものは一回きりである。
椿姫のアリアを聴いて感動したが、音楽も雲と同様に一回きりの芸術である。
清清しい朝で、愛犬と散歩をした。最近月はどうなったかと思っていたが、西の空高いところに半月が見えた。光陰矢の如しである。
今、as if パーソンのことを考えている。自己愛の問題で、「限りない成功。権力、知性、美、あるいは理想の愛といった空想への没入」ということである。自分の中にも、愛の孤独->防衛機制の同一化->この空想への没入という傾向がある。
その中で、一番大事な羅針盤は自分が自分に感じる「違和感」ではないだろうか?空想への没入へは、どこかで自分の痛み、他人の痛みを忘れるところがある。それを「違和感」を感じることで気づかせてもらえる。
小学生のころであったか、母に連れられて帽子を買いに行った事がある。なかなか気に入らないのだが、店員が「ロビンフットみたいよ!」といって薦めた。その言葉で母に買ってもらったのを覚えている。その後、その帽子をかぶってみたが、どうも自分がロビンフットのようでもないと「違和感」を感じた覚えがある。