昨日は、カトリック教会の司祭叙階式に参加させていただいた。東京カテドラル聖マリア大聖堂での荘厳かつ楽しい叙階式であった。2000年の伝統を感じさせていただき、また、この時代に妻帯せず叙階される新司祭の尊い想いに心が洗われるようであった。
たまたま今、日本の古代のことに想いを寄せていることもあり、平安時代に遡る仏教の潅頂や、神道の斎宮、あるいはそれ以前にもあっただろう聖なる仕事のことを考えた。勿論人間であるから、聖なる仕事と従事する人とのギャップは当然あるのだが、そのギャップを乗り越える聖なる仕事への憧れは、人に宿る基本的な特質ではないかとさえ、今は思う。
日本でも、最近例えば公開講座などでは、寺社関係、伝統宗教関係が結構にぎわっている。私もそうであるが、聖なるものに惹かれるのだろう。どんどん世俗化される世の中ではあるが、それがかえって、聖なるものを求めるのであろうか。
惹かれるというのは、逆に言えば、魂(非常に深いところの)からの不安というものがあるのだろう。魂とはどんなものだろうか。不可知論の世界であるので、死ななければ判らないのかもしれないが、推察し信じてみることで、より良く生きる糧となるように思う。U先生から教えていただいた、カトリック全書の「神のめぐみとは」(J・ドージャ著)を再読したくなった。
自分の生育史からなるこころとは別に、魂なるものを推察し、それを信じてみると違った世界が見えるのだと思う。
そして身体、こころ、魂からの不安を気おつけて考えたり識別してみると、そこから私は何か?という答えが垣間見られるかもしれない。
写真は東寺。祖先たちも必死に、こころのありようを熟考していた。私もそうした文化の延長にいる。
(感謝の領域(私は何か?⑨)49/60)
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