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琵琶湖の旅!(2014.3関西の旅 4)

2014-03-14 | 旅・雑記帳

昨日は、朝から一転して本格的な雨。京都博物館でもと思ったが、ネットで調べると休館中。しかし、琵琶湖までは予想外に近く、天智天皇、大友皇子の御陵を見学し、近江大津京跡を尋ね、瀬戸唐橋まで足を伸ばすことに。

京都から山科の御陵までは市営地下鉄で簡単に行けた。そして駅から約二十分で天智天皇陵。激しい雨で折り畳み傘ではしのげず大きめのビニール傘をコンビニで購入。御陵は、近くに他の陵もなく、何故ここに天智天皇の御陵がと、むかしから疑問に思う人も多かったようで、天智天皇暗殺説もまことしやかに囁かれているようだ。

 

しかし、壬申の乱の後、天武天皇が崩御されて、持統天皇の時代に建設されたので、かなり辻褄が合う。持統天皇は道教にも明るく、天智天皇の実子である。藤原京の真南には天武−持統天皇陵があり、そこから正確に北の方角に天智天皇陵がある。天智天皇は冷徹な政治家で、持統天皇の祖父を謀殺した悲劇があったが、持統天皇は立派な稜を造ったようだ。雨で私以外に参拝者も皆無であったが、馬酔木が咲き、大きな昔からの岩などもあり、良い時を過ごさせて頂いた。

 御陵の入り口には天智天皇のゆかりの時計に因んだモニュメント

 天の中、馬酔木も綺麗でした。

 

  

 立派な岩があり、創設時(持統天皇のころ)由来の岩かなと想像しました。

 

その後、大津市役所の裏の大友皇子、弘文天皇陵を訪れ、大津市役所にも寄って七階から眺めたりした。残念ながら琵琶湖は望めなかった。大津京の時代は恐らく湖はずっと大きく、岸も京阪電車の線路あたりまできていたようだ。

 

近江大津京遺跡は、京阪の近江神宮前で降りるとすぐそばにあった。遺跡は点在していたが、天智天皇が執務をしていたと思われる中枢の建造物跡に立った時は、胸がいっぱいになった。唐の侵攻を恐れ防衛優先で遷都した大津京は、五年ちょっとで、壬申の乱で廃墟となる。しかし、天智天皇を始め、当時の有名人が愛した地であることは確かで、いろいろ妄想した。

 遺跡は第1から第8地点まで住宅地の中に点在

 天智天皇が執務をしたあたりかと・・・胸がジーンとなります。

そして、京阪で唐橋前に移動。壬申の乱では近江軍が西側に陣をはった防衛線で大海人皇子側の大分稚臣(おおきだわかみ)が鎧を二重に着て、飛んでくる矢でハリネズミのようになりながら橋を突破したのは有名だ。

  

河原に降りて今はコンクリート造りの唐橋をしたから撮ったのが写真である。壬申の乱の記録は近江側の記録が抹殺されたようであるが、実際はどうだったか、いろいろ妄想した。そして、京都に帰る前に、源義仲と芭蕉のお墓がある義仲寺に寄った。芭蕉が何故、この琵琶湖の地にお墓を作ったか。これまた時代は変わるが楽しい思索をさせていただいた。

  雨の義仲寺

 源義仲の墓、そのそばに巴御前も

 芭蕉のお墓が!

2014.3関西の旅 4

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