縄文土器を岡山県新見市の美術館でこの夏に作ったのだが、先日、野焼きをしてお送りいただいた。想像以上に綺麗に焼いていただき感謝であったが、自分の土器の厚さは1cm以上。いろいろコーチをしていただいたにもかかわらず、明らかに修行不足というものだった。
その時に美術館の先生からお教えいただいたが、縄文草創期には数ミリの土器があり、それを今の人が作るのは至難の業だという。つまり、13,000年?前にすでに技術的には土器製作は完成の域にあった。
土器が届いてから、ちょうど先日の台風のときだったか、府中の森の博物館に土器が見たくなり行った。そして、武蔵台遺跡(都立府中病院の敷地?)の縄文早期(11,000年前)の土器を見たが、その薄さにショックを覚えた。
私が学生のころは縄文時代といえば、原始時代というような感覚で教えられ、今でも縄文の人を、ちょっと侮蔑的に縄文人と呼ぶ人も多いが、土器を実際に作ってみて、技術的にはもう最終到達点をとらえた祖先に、劣等感さえ感じてしまった。しかし、一方に不遜にも努力をすれば対等になれそうな感覚もある、縄文の祖先との平和を感じることができたようだった。
各地の博物館や埋蔵文化センターなどで土器づくり、糸づくり、縄文食体験といった企画が盛んにおこなわれているが、縄文の人への不要な防衛機制を解放し、共感・受容する体験として、心理学的にも素晴らしいものだと思う。是非、皆さまも体験をされては。
さて、土器づくりは幼いころの粘土遊びなどにも通じるが、自分の生育史と向き合う自分史ブームに最近興味を持っている。実際、私も「生き甲斐の心理学」の学びで自己分析の論文を書いた経験があり、過去の自分との対話は貴重な経験だなと感じていることもある。
悲しい体験、何とも言えない経験、反対に楽しい体験、嬉しい体験・・・それこそ、そういったものが走馬灯のように見えて来るのが自分史なのだろう。私も17年くらい、いろいろと生育史を研究してきたが、その中で自分の知られざる部分の意味を発見したりすることは、豊かな糧となり、残された人生をよりイキイキとさせ、自分との平和を増進することにもなると思う。
なぜ発見できたかは、いろいろ自分で生育史を楽しんだ成果(無理をしないということでもある)とも言えるが、振り返ってみると、悲喜交々の体験・経験を様々な視点で再解釈するということにつきると思う。悲のほうの視点も喜のほうの視点もである。そして、経験当時(幼いころ)の倫理道徳に縛られた解釈を、人生をいろいろ経験した今の視点(かりに本物の愛の視点というか)で再解釈する。愛の原型をあれこれ考え、その原型と思われる引き出しが増えれば増えるほど豊かになるようだ。
自分自身に対する、共感とか受容。それを生み出す本物の愛の解釈というか・・。これは他者の傾聴と同等に難しい作業だが。向き合う意味は大いにあったようだ。
他者との関係性とストレス曲線 6/10
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森 裕行 | |
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