先日、孫娘たちと多摩動物公園に行ったのだが、その半分以上の時間を昆虫館で過ごした。夕方だったので象やキリンといった大型の動物はよく見られなかったのだ。
しかし、孫たちには蝶も一頭、二頭と数える動物だよと教えるなど動物園の昆虫を楽しませていただいた(笑)
その中で印象的だったのは、オオゴマダラの完全変態の様子を観察できたことだ。それも、次の写真のように毛虫が、葉の裏に他の蛹のようにぶら下がり、変態を始める様子も見られたことだ。毛虫の嫌いなかたは、次の写真は目をふさいでください。
完全変態というのは、若いころに等価変換創造理論を学んだ時に知った生命の神秘だ。毛虫という状態のオオゴマダラが、蛹となり、蛹の状態で殆どアミノ酸レベルまで分解したりして蝶に再生する。生殖といった目的の中で(他にも目的はあるかもしれないが)、毛虫という全く別の蝶となるのだ。
一般に動物が完全変態するケースは少ないかもしれないが、いろいろ変化することは確かだ。人間も勿論外見上など幼児から老人と時間とともに変わっていくが、時に内面上大きく変わる瞬間がある。
先日の、旅行では中将姫の出家や持統天皇のことをいろいろ考えた。今の研究テーマである持統天皇については、近江宮で天智天皇の死が近づき、天武天皇は吉野に僧形で行ったが、その後、壬申の乱を起こすために吉野から東国へ天武天皇と出立する。この時天智天皇・天武天皇の親族で同行したのは、持統天皇と息子の草壁皇子、天武系の忍壁皇子だけであった。因みに親族は何十人も存在している。
このころの持統天皇は、父が天智天皇であるものの、政治的には大友皇子やその皇后候補としては山辺皇女と不遇であったと思われる。その中で天武天皇と乱を起こすわけで、私にとっては持統天皇が蛹から蝶に変身する時期のように感じる。それは一体なんだったのだろうか?
自己実現の道を考えるときに重要なことは、何だろうか。例えば持統天皇は何をしたのだろうか?恐らく「自分とは何かを自問自答した」と思う。自問自答というより、神仏に祈ったかもしれない「自分とは何か教えてください」と。中世の女性神秘家として有名なビンゲンの聖ヒルデガルトも言ったそうだが、問いのないところには聖霊の答えはないのだ。
持統天皇のこころの中に湧きおこる情動にも興味はある。それは生き甲斐とか、自分の本来の傾向や渇望と関係が深い。政権の中のどろどろとした女の戦いがあったかもしれない。同じ蘇我の血をひく蘇我赤兄などの大友政権との確執、あるいは唐や新羅の女帝の動向など外国との関係もあったかもしれない。男には任せられない当時の女性性の叫びがあったかもしれない。定説はないが、熱い情動がほとばしったのは確かだろう。
今まで、約一ヶ月自己実現のことを考え続けたが、当初のイメージよりずいぶん変わったように感じる。それは棚のぼた餅を眺めるというより、常に自問自答しつつ神仏と一緒になって創造していくような道のよう。
自己実現の道の歩み方 10/10