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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

壬申の乱を東京博物館で感じる!(時間と空間の旅 ④ 9/10)

2014-03-08 | 第二章「五感と体感」

 昨日、どうしても東京博物館で文祢麻呂の墓誌や瑠璃骨壺を観たくなり訪れた。本館のインフォメーションで、どこに展示されているのかお尋ねしたが、私の尋ね方が悪かったのか展示されていないとのことであった。本館では、ちょうど支倉常長展が本館7室で開催されていたので、400年前の肖像とか世界地図の屏風などをゆっくり味わって満足し(私はカトリック信徒でもあるので)帰宅しようかとも思ったが、文祢麻呂が頭を離れず他の展示場もしっかり回ってしまった。

 法隆寺宝物館は、7-8世紀の半島からの仏像を含めて沢山の展示があり、おそらく当時の有力者(壬申の乱に出てくる、祢麻呂を含めて)のお宝も含まれているようで、なんとも言えない気持ちになった。ちょうど、見学ごろには雪がかなり激しく降り、天武天皇が壬申の乱のころに読んだと思われる萬葉集の歌を思い出したり。

みよしのの 耳我(みみが)の峯に 時なくぞ 雪はふりける 間(ま)なくぞ 雨はふりける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ來る その山道を

 そして、通常催し物がある平成館によってみた。縄文時代の国宝級の遺物をはじめ見応えがある考古学が好きな人には熱狂させる展示なのだが、最後の最後に何と文祢麻呂の墓誌と瑠璃骨壺が!写真は禁じられていたので、私の所持している雑誌の写真を次に参考までに。

  

 骨壺は瑠璃のガラス製のもので、高さが10センチを超え、何とも言えない存在感があり感動が走った。

 雑誌の記載にもあるとおり、祢麻呂の墓は実に山奥、当時にあっては、都人にとっては想像を越えた山奥に、防衛関係の長官クラス(正四位上)の祢麻呂の墓が作られていた。1831年に偶然見つけられた墓だったが、この謎に挑戦して小説家や歴史愛好家はあれやこれや楽しく夢を膨らましているようだ。

 壬申の乱では、特に東日本の豪族の決起が天武天皇の勝利のカギであったが、舎人の祢麻呂(百済系文氏の豪族)が吉野脱失を図るため、吉野近くの豪族を味方につけることが勝敗のカギの一つだったようだ。そして、初めは数十人くらいの天武天皇の軍隊が安全に脱失し、数万人の軍隊に膨らみ、最終的に近江京を落とす。

 天武天皇を中心として、有力豪族の子弟からなる舎人との関係、絆は強かったようだ。さらに、当時は渡来系の人も多く、国際的な環境だったようだ。宗教も吉野は道教?の信仰に扱ったとされる斉明天皇が建設したとされている。祢麻呂が工作した豪族(山人)がどのような思想を持ち、どう関わったのか大変興味がある。

 さて、こころの防衛機制に同一化というものがある。朱に交われば赤くなるなど、悪い面もあるが、仲間意識ゆえに様々な事業を成し遂げたりするポジティブな面も多い。壬申の乱の時の天武天皇を中心とした舎人仲間による結束も、実際に歴史を動かし律令国家、日本の原形を作ってきた原動力だったと思う。しかもリーダーの天武天皇や持統天皇は政治家としてもセンス抜群で一流だったと思う。

 ただ、負の面もあることは充分認識する必要があろう。壬申の乱やその後の権力闘争を考えても、多くの人が亡くなったり、傷を負ったりしたことを忘れてはならない。

 歴史の勉強は楽しいが、リーダーが同一化で眼を曇らせか否かは重要で、適切な人でないと国家規模で存亡の危機に陥る。民主主義が他と比べてましだとされているのも、この同一化の危険性に歯止めをかけているからだと思うが如何だろうか?

時間と空間の旅 ④ 9/10

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