先日、次の勉強会でシャガールの絵を使った絵画観賞療法のことを考えるために、絵をのんびり眺めていた。すると、ふと中学生のころに死んだ愛犬アキのことを思い出した。シャガールの絵の中の動物の目が愛犬の目を彷彿とさせたのだ。
アキは秋田犬で、我が家にやってきたときは、小さなマスカットの木箱に入って来た。私が2-3歳のころだったろうか。そんな風に初めは小さかったが、次第に大きくなり、父が大工さんに頼んで大型の犬小屋を作りそこで暮らすようになった。
祖父をはじめ家族で散歩するときに、他の犬と喧嘩したり大騒ぎになることもあった。そして、ときどき脱走もしたり。今の世の中であればゆるされない、やや危険な犬でもあった。そのアキも10歳近くなると病気になり(フィラリア)弱ってくる、そして獣医さんに診断してもらったり注射をしてもらったり手当をしたが、ある日、大きな犬小屋の中で死んだ。
弱っていたので、犬小屋の中にいて欲しいと私は押し込んだが、外に出たかったのか結構強い力で押し返したのが最後で次の瞬間は亡くなっていた。
愛犬の死に図らずも立ち会ってしまったが、そのとき初めて錯乱・自己混乱感を味わったようだ。
エリクソンは13歳から22歳を忠誠心、アイデンティティー、自己混乱感の時代としている。
さて、最近縄文時代に凝っているが、縄文時代の遺跡からよく発掘される、土偶と土器。もちろん当時の文献は発見されていないが、図案や発掘状況などから当時の宗教などが結構研究されていて、名だたる研究者が様々な見解を述べている。
土偶は、縄文のビーナスとか言われたりするが、大地母神を表しているように思う。そして、それが初めから壊されるように設計されていたり、実際壊れていない土偶が殆どないことから見て何らかの祭儀に用いられたようだ。中国の盤古神話や日本神話の保食神の話があるが、女神と豊穣な五穀との不思議な関係を古代の人は思い浮かべたのだろう。
土器についても、女神の身体、生殖をイメージする土器は、貴重な食べ物を生み出す神秘と関係しているのではと考察する人もいる。生と死と再生のドラマである。
私も、カトリックの幼児洗礼を受け、母と教会に行ったりしたが、高校くらいになると、宗教や哲学についても自分で考えはじめるようになる。そして、17歳のころか、ちょうど今ごろに家でニーチェの本を読んでいるときに、神はいないのではないかと想い、そして強い錯乱感・自己混乱感に陥ったことを思い出す。
それから、40年以上が過ぎたわけであるが、そのときのことを考えると、その自己混乱感は、本当の光の発見の序曲であったようにも感じる。暗い感情には反対側に明るい感情が控えているという理論がある。そういうことを知っているだけでも世の中楽にいきることができる。
旅の意味② 5/10