20歳台の入社間もないころ(30年くらい前か)。営業の仕事をしていたが、A部署では成績優秀者が、ご褒美(インセンティブ)をもらっていたのに、自分の部署ではそれがなかった。
ある時、部長がお酒の席で、何故インセンティブをやらないかこっそり話題にした、人間の成長が大事であり、変なインセンティブは本人のためにならないと断言していた。そんなものかと、その時は思ったが、深い言葉でもあった。
今の世の中、世間では眼の前の成果にとらわれることが多くなったのか、インセンティブは当たり前になってきている。そして、仕事をするうえで、私もいろいろインセンティブを考えたものだ。
インセンティブはゲーム感覚的なところがある。人を操作する、操作されるを暗黙に認めている。そして、人の表層、深層というふうに考えると極めて表層の話なのかもしれない。決して人を深く捉えてはいない。
今、我が家には娘と孫娘が来ている。娘がたまたま仕事をしているときに、孫娘が泣き叫んだりし娘が感情的になる。そして、条件付き的なことを言う。自分もそんな風にして育てたり、育ったのだなあと悲しく思ってしまう。
しかし、自分の歴史を振り返ってみると、時には無条件(利害にとらわれない)の愛に近いものもあり、思わず感激する。孫娘にも、できれば無条件の愛を伝えたいものだ。
さて、7歳の時のアラスカの話に戻ろう。相手の女性の先生は、色紙を見せて英語を教えようとしたようだ。ただ、何も答えられない私を見て困惑していた。一瞬の間があり、その時、日本語で答えればいいんだと思った。日本語で色を答えた。
その時の自分の声は場違いで異様に感じた。違和感と不安感が覆っていた。
それに対し、女性の先生は、丁寧に私の言葉を聴いていた。外国の小学校で英語を話す訳でなく、日本語を話す生徒の存在。それを無条件に受け入れてくれたのだ。これが、ロジャースの6条件の4つめ<無条件のPositive Regardを経験する>、<受容する>に近かい。
その次に、次に先生は、私が話している言葉と動作から、その日本語が色を意味していることに気づき、眼を輝かせた。
日本語でしか回答できない、自分の状況に共感し、私のこころの世界を理解しつつ、さらに私が意識化してなかった、日本語を話す私の個性を知り、すぐに周りに座っていた生徒達に、日本語で色を語らせた。
同級生達は、先生と共に私をあたたかく受け入れ、わたしは安心した。自分の感情が不安から平安に心地よく切り替わったのだ。
6条件の5つめの<共感>と6つめの<受容と共感の伝達>がなされ、私の問題(理想=英語を話すこと、現実=しゃべれない)が、(理想=現実=日本語を話しても優しく受け入れられる。)に変わったためなのだろう。
今日は、ちょっと理屈っぽくなってしまったが、人生で大切な瞬間(自分の成長の時)は、カウンセリングルームだけで行われたのではなく、意外と身近なところで起こなわれていて、それが理論にのっとっているということをお伝えしたかった。皆さんの事例も教えてください。
(こころの援助を考える⑥(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 7/60)
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