この季節、サボテンの花が咲き、いつも意識しないサボテンを意識する。この写真のサボテンも黄色い可憐な花をMさんに頂き、ダメかもと思いつつ挿し木?したところ根付いて、一年でこのよう(ひょうきん)になった。
生命とは、本当に不思議だ。特にサボテンを観察しているとそう思う。
最近、日本神話で冥界探訪のオオクニヌシノミコトやイザナキの話をじっくり読んだりしているが、世の中には比較神話学などの研究があり、ギリシャ神話の冥界探訪の神話などと結びつけて研究する方もいらっしゃるようだ。
そこで、今日は冥界の王ハデスや、ペルセポネやデメーテルの話も読み返してみた。確かに基本的な構造などが日本神話に良く似ている。ギリシャと日本とどうつながるのだろう。
日本の神話は、記紀が8世紀ごろ登場したので、何となくそんなに古いものではないと思うところがあるが、ギリシャ神話にも似ていたり、オセアニアの神話に似ていたりで、数千年、あるいは数万年の人類の生命の記憶が残されているかもしれない。
最近のDNAの研究の成果もあり、現在の66億人の現世人類は5万年前にアフリカを出発するなど、はじめは非常に小規模の集団で1か所から広まったことが判ってきている。
地理的に離れても、外国の神話が伝搬してきたと考えられるが、もともと一緒に住んでいたころ記憶が、気が遠くなるような時間とともに各地に伝搬されてきたと考えることもできるかもしれない。日本の神話もギリシャの神話も共通の祖先からの物語かも(口伝えするうちに伝言ゲームみたいに変わることがあっても)。
古代の人の死の世界のイメージは、イザナミやハデスの世界と考えると、現代人の死のイメージより、より親しみやすく、何か、死の世界に「ちょっとそこまで!」といった感覚が垣間見られる。
イザナキがイザナミを追って冥界に行くのは、特にそんなふうである。その後大きな石で冥界がふさがれて冥界と地上は別れてしまうが、もともと簡単に出入りできたかもしれない。
因みに、死は厳粛なものであるが、「今日はどちらに?」の質問に「ちょっとそこまで」といったふうに、残される人に配慮しつつ、また幸せに大往生をされる方もいらっしゃる。
死も、解釈の仕方ひとつで変わり、ストレス曲線ととらえることもできるが幸福曲線で捉えることも可能なようだ。
イキイキと天寿を全うしつつ、死も一つの楽しみとできればと思う。
<死の問題 4/4>
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