人には不思議な盲点があり、他人が容易に気づき注意しているのに、本人がなかなか気がつかないことがある。
私が人から注意されても、自分で体感し納得しなければ「うわのそら」で終わる。あるいは、否定することもある。それは、とても重要なこころの仕組みである。
ただ、不思議なことに、意外な指摘を受けたことの中には、いくつかのイメージを伴ない記憶の中に沈殿しているものがある。忘れな草のように、forget me notと囁きながら沈殿している。
そして、ある日、理解できなかった昔の出来事が体感を伴って理解されることがある。50年前の少年のころの出来事、私は本当は謝りたかったのだとか。あるいは、5年前の謎の行き違いの真相が、忽然と納得できるなど。
ベランダの忘れな草が、随分元気に咲き出している。騎士が彼女のために岸辺で忘れな草を摘み、そして誤ってドナウ川の急流に飲み込まれる間際、彼女に投げた忘れな草。
今日は何を語ろうとしているのだろう。
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