この広い世界を。

可愛い歳月。
思ったことの記録。

ゆく年。

2012-12-31 12:11:19 | ひとりごと。
なんだかちっとも実感がないのですが、
どうやら今日は大みそからしく、今日で2012年が終わるらしいです。


長いようで長い一年間でした。

だけど短いようで短い一年間であった気もします。(なんじゃそりゃ)



たくさんの人たち、たくさんの幸せな出来事、たくさんの悲しい出来事、
たくさんの言葉、たくさんの音楽、たくさんの可愛いもの。

そしてわたしのちっぽけな生命、わたしの人生、運命。


今年も一年いろいろとありがとうございました!


来年もよろしくお願いします。


どうぞ暖かな良いお年をお迎えくださいね。


白い光。

2012-12-29 13:07:17 | ひとりごと。
2012年、みなさんはどんな年でしたか。


わたしは、と言えば今年はたくさん音楽を聴いた年でした。

それはもう史上最高に。


特にスピッツはつぎつぎに開けた扉がどれもこれもよかったので、
うっかりファンクラブに入っちゃいましたよ(笑)



じつはわたし、去年の9月から今年の7月まで無職でした。

アルバイトもセラピーのお仕事もお休みしていました。

月々の食費をきちんと入れるのを自分に課した条件にして、
しばらくぼんやりさせてもらっていました。


震災以降しばらくしてから、
電車に乗るのがしんどくなっていました。

叫びだしそうになるのを自分で必死におさえこみ、
途中で各駅停車に乗りかえられるので、それに乗りかえてバイトに通いました。


それはきっと、そんなふうにしていれば、
いつしか忘れてしまうようなことだったのかもしれない。


だけれどタイミングとはよく考えられたもので、
電車に乗る不安感を忘れることがないうちに、バイトしていたお店が8月末で退店することになったんです。


電車に乗る不安感をそのままに、わたしは職を失いました。


頭では「働かなくちゃ」とわかっている。
世間が無職の人に抱く感情も、頭では理解している。

でも心がぼんやりと力がはいらずそれについてこない。


あの震災の強烈な揺れで、わたし自身も激しく揺さぶられ、
とりあえずのもので埋め立て整地したわたしの心も液状化現象を起こし、
隠していたものがむきだしになってしまったのです。



そうだ、わたしはずっとずっといろんなことが怖かった。

わたしはもう大丈夫と、平気なふりをしていただけだ。

平気なふりをしてただけで、ちっとも平気じゃなかった。


そしてそんな自分では、相手に対して失礼ではないかとおもったのです。



無職の約一年間、いろんなことを考えました。

ぼんやり空をみながら、いろいろ考えました。

いろんなことに気づきました。

ほんとにいろんなことに気づきました。


記録しているだけでノート5冊分のセルフヒーリングをし、
そのなかに可能性をさぐりました。

膝を抱えこんで、パソコンの前で音楽を聴きながら、
やはりそのなかに可能性をさぐりました。


小沢健二はほんとによく聴きました。

一日中小沢健二の「ある光」の日もあったくらい(笑)



つぎつぎと音楽を聴いていてめぐり合ったのが、スピッツの「僕のギター」という歌。


八方塞がりの暗い部屋に、一筋の白い朝陽のような光が射すのが生々しいくらいはっきりと見えたんです。

寒い部屋に、熱を帯びた光が射すのが。



ずっと強くて立派な優しい人間でなければならないと、
もっともっと強い人間でなければならないとおもってきた。


でも、もしかしたらこの小さな祈りでよいのかもしれない、
わたしはこのままでよいのかもしれないと気づいて、ちょっぴり泣きました。



君にも見えるかな。

白い朝陽のような光が射すのが。


小さなことが、大きな光になってゆくのを。



崇高でなくていい、わたしはただ真摯でありたい。


メリークリスマス。

2012-12-24 12:39:36 | ひとりごと。
いまとなっては「幸せ」という言葉の固定概念が強すぎてしまってそれに囚われ、
広がってゆくはずが、かえって視野をせまくしてしまったりするときもある。


曖昧なくせに絶大な影響力をもつそいつが、あまりにでかいものに見えてしまって、
自分には無理だなんて求めながらもあきらめていたりするときもある。



なので最近のわたしが基準としてるのは、幸せか幸せでないかよりも、

可愛いか可愛くないか。


たとえば、「幸せな食卓」より「可愛い食卓」の表現のほうがわたしには何かがつかみやすいし、
「幸せな人生」も素敵だけれど「可愛い人生」という表現のまるまるふわふわした感じが好きだなっておもう。



だから。


可愛いクリスマスを過ごせますように。


可愛いクリスマスが、世界中に降り注ぎますように。





2012年12月21日。

2012-12-21 01:52:46 | ひとりごと。
今日はかぼちゃ食べる日だよ。


……。


あれじゃないですかね。


マヤ文明のカレンダー事業部みたいなところが、
2012年12月21日までつくったところでなんらかの事情で撤廃になったとかってだけじゃないですかね。

それにしたって、カレンダーめっちゃ作ったよね。



スピリチュアルな面だと、この日は地球滅亡じゃなくて、
この日を境にアセンション(次元上昇)が起こると言われています。

みんなの意識レベルが上がってハッピーになるんだそうな。



でもさ、自分やら地球やらがハッピーになるのをアセンション任せにしていたら、
なんも変わらんだろってわたしはおもってたりもするんだ。


アセンションなんか気にせず、
どんどん気兼ねなくハッピーになっちゃえばいいのにってね。


自分のハッピー、アセンションとやらに任せっきりにしちゃいけないよってね。



ミャンマー上座仏教にねセアロっていう日本人僧侶がいるんだけど、
その人の言葉で大好きなのがあるんだ。


「自分を愛してあげなさい。
 あなたに必要なものは、あなただ。
 愛してくれる人を探してはいけない。
 あなたは今までそうしてきた。
 今までたくさんの人のためにしてきた。
 それをまず自分のために使いなさい。


 神が望むのは、あなたの幸せだ。」



あ、そうそう。


かぼちゃって切ってる途中で包丁がぶっささったまんま、
にっちもさっちもいかなくなって途方にくれるよね。


じゃ、また。


あ、柚子がおふろにぷかぷかしてるのってかわいいよね。

僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも。

2012-12-14 11:54:28 | ひとしずく。


   “左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる
    僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも”


小沢健二の「さよならなんて云えないよ」という曲の歌詞の一部です。


むかーし、オザケンが「いいとも」に出演したときに、タモさんがこの部分を絶賛したというのは、
オザケンファンのあいだではすでに伝説。


絶賛の内容はこんな感じ。

わたしはその「いいとも」を見ていないし、
ネットで拾いあつめた話しなのでタモさんの発言もオザケンの発言も、
実際のニュアンスとは多少ちがってきているかもしれません。



  「道を行くと向こうにきれいな海が見える。そこまではふつう。
   それが『永遠に続くと思う』というところがすごい。それはすごいこと。

   『瞬間』が『永遠に続く』
   つまりそれは生命の最大の肯定。そこまで俺は肯定できない」


それに対してオザケンはこんなようなことを答えています。

  「いまの何気ない日常から、
   人生の秘密とか生命の神秘とか永遠とかにピュッとつながるような曲を書きたいといつも思ってて」




正直、わたしにはこの話しがよくわかりませんでした。

生命の肯定、などと言われてもピンとこない。

『瞬間』が『永遠に続く』…?どうゆうことだ?



ところが一昨日でしたか、アレっ!?とおもった瞬間があったんです。


瞬間が永遠に続く、ということは、永遠は瞬間の連続です。

瞬間の連続で人生はできあがっています。


だとしたら、いま!この瞬間!わたしは自分の生命を肯定しているだろうか?って。


考えるまでもなく、肯定はしていませんでした。


わたしが肯定していたものは、条件をつけそれをクリアしたものだけ。

つまり、その肯定は「今のこの瞬間」には永遠にこないものです。


自分のなかにあるこの「生命」でさえ、今の今まで肯定することはなかったことに気づいたんです。



ただ「生命」ということ。

一秒先でも二秒先でもなくて「今この瞬間」の自分の「生命」に、
自分で自分に許可をあたえることはなかった。


条件をいっさいつけないここにある自分の生命。


それは、ここにある。


ただ感じるだけで泣けるほどあたたかい。


生きていいのだとはじめておもった。