この広い世界を。

可愛い歳月。
思ったことの記録。

アートオブブルガリ。

2015-10-23 13:35:20 | おでかけ。

@東京国立博物館 表慶館。

本館を正面にみて、左手にある表慶館での特別展です。


たくさんの芸術品はもちろん、ブルガリのジュエリーも、
こんな機会がなければ見ることなんてできません。

ガラス越しでも、わたしはわたしの人生のうちに、
なるべくたくさんの本物とか綺麗なものを見たいなって思っています。


うっとりするほどのたくさんのダイヤモンドや、
嘘みたいな色の大きなエメラルドやルビーなどの宝石。

自然が創りだした鮮やかで深い色の、魔法のような石。

大きくてきらびやかで、主張が強すぎるほどの存在感をはなつジュエリーたち。


ティファニーで朝食をのオードリーみたいに、
展示されてるジュエリーとガラスに映る自分を重ねあわせてみたりして。

優雅なひとときを過ごさせていただきました。












琳派と秋の彩り。

2015-10-23 12:58:26 | おでかけ。
@山種美術館。

琳派ってよくわからないのですが、
琳派とよばれる美術品はなんだか好きなものが多い。

今回の特別展のポスターになっている酒井抱一の「秋草鶉(うずら)図」にグッときて、
これは見にいかねばとひさしぶりに美術館へ。


ね?美しいでしょう?
お月さまのかたちが満月でも三日月でもなくて、
下弦でも上弦でもない、アーモンドみたいなかたちなのが秀逸。たまらない。



会場にはいって一枚目の絵からほんとうに美しくて、
泣きそうになるくらい来てよかったと思いました。


働いているお店がびっくりするくらい忙しくて、土日など息つく間もないくらい全力で走りぬけるような一日で、
そんな毎日のなかで、わたしの中からなにかがこぼれ落ちてしまっていたようでした。

わたしはそれをどうしても失いたくはなくて、
しっかりと掴まえていたつもりだったのだけど、いつのまにか渇いてしまっていたようで、
一枚目の絵から、心がしっとりとかぐわしいお水のようなもので潤ってゆくのがわかりました。

それは一枚、一枚と見てゆく絵を重ねてゆくたびにどんどんと潤って、
ああほんとうに来てよかったなと思ったのです。


美しいものを美しいと思う心。

それに感動していたい。

慣れてなんてしまいたくない。

そしてそれに見合うわたしでありたい。


それをわたしは失いたくはないなって思うのです。


それでやっぱりわたしは酒井抱一の絵が好き。

経年でしか得られない色が好き。

自分の好きを思いだせる。

それは幸せなことだ。


ほんとうに来てよかったな。

モンスター。

2015-10-15 18:01:31 | ひとしずく。
(数年前の過去記事より再UPです)


以前、わたしはこの胸にモンスターを飼っていました。


モンスターの好物はしらない。

モンスターの名前もしらない。


自分の胸のなかをまじまじと見たことなんてなかったから、
そもそもこの胸の中にモンスターがいるってこともしらなかったんだ。



だけれど、ある日ふとした瞬間に、
自分の胸の中のモンスターの存在に気づき、
気づいたのと同時に、モンスターの名前を知ったのです。



あいつがわるい。

あれがわるい。

これがわるい。

せいじがわるい。

くにがわるい。

しゃかいがわるい。

かいしゃがわるい。

うんがわるい。

じだいがわるい。

きょういくがわるい。

なにもかもがわるい。



そんな心が大好物のモンスターの名前は『被害者意識』



あ、被害者意識。


そう気づいただけでモンスターは砂のように崩れおち、ばったりとたおれた。


モンスターはわたしの表層意識には住めないらしい。


でね、モンスターがたおれたあと、
ぶわっとすごい勢いで浄化の風が世界中にふいたのを確かに感じたんだ。


被害者意識という名のモンスターがたおれたあと、
目をあげてまわりを見わたしてみたら、
この世界は歓喜の声をあげたくなるほど豊かだったんだ。



ずっと目に見えていたのに、気づかなかった。


あの日からわたしの世界は可愛くて美しいのです。




楓。

2015-10-12 10:35:59 | ひとしずく。
楓の花言葉:「大切な思い出」


たとえばなにげない風景に、鮮明にいろんなことを思い出して、
とても泣きそうになって、それを我慢したりする。

たとえばそれが、BSの酒場放浪記だったり、とうちゃこの自転車旅だったり、
ミニつぶあんぱんだったり、コンビニの鈴カステラだったり、かりんとうだったり、
農協のうどんだったり、ドラッグストアで特売の緑のたぬきだったり、
本の折り目だったり、車の中に残されたポイントカードだったり、
自分のなかにあるちょっとした思考だったりします。

それらは特別なものではなくて、本当にふつうの日常だったもの。

本当になにげない、気にもとめないもの。

それがなによりも大切で幸せな風景だって知ったの。


ねえ、お父さん。

あなたがそちらに逝って今日で一年が経ちました。

痛くて苦しかったからずっと笑わなかったお父さん、そちらでは笑っていますか?
それだけが気がかりです。

生きてるときはそんな好きだったわけではないのにね、
彼岸でも来世でもやっぱり笑ってるあなたを祈るのです。


晩年は歩くことさえもままならなかった父の最後の願いは、

好きなときになんの気負いもなく、コンビニかなんかへ行って好きなものを買い、
そこで知り合いに会ったりして「よぉ」とかいったりすることでした。


それはなかなか深いものだなと、ときおり強く思い、しみじみするのです。