この広い世界を。

可愛い歳月。
思ったことの記録。

鳥になっちゃうアレ。

2012-12-13 00:53:39 | LOVEと絶望の果て。
つくづくわたしはアマノジャッキー(天の邪鬼のこと)だなと考える。


例えば「好きなもの」を写真にとる被写体だとしたら、
その被写体をまんなかにはおきたくはないのです。


被写体をまんなかからずらして、まんなかには空間をおいておきたいのです。


まんなかにはゆらめきをおいておきたいのです。



わかるかな。



けれどそのわりに、まんなかからずらしているわりに、
すごい集中力でその被写体を必死で刻みこもうとする。



そして、好きなもの、は好きなものだけを好きなのではなくって、
わたしの日常とセットで好きなんだって気づいたんです。


わたしの日常によくなじむ、好きなもの。


例えば、ふつうの日の夕焼け空、ふつうの日に歩くふつうの歩道、
ただ顔をあげて見た枯れた田園風景、ちょっと散らかった部屋でぼんやりとする時間。


わたしの好きなものは、そんな何でもないわたしの日常に、
トイカメラのようなぼよぼよとした色彩をかぶせ、ちょっぴりアーティスティックに彩る。


そこが好きなんだと気づいたのです。


君に会いに川を渡っているのはわたしではなくて、
君が渡ってきてくれているのだ、と。


だからこんなにもわたしのふつうの日常になじむのだ、と。




先日初参加した都内某所でのスピッツのDJイベントで、
たくさんの人たちの可愛いらしく盛り上がっている様子をながめながら、
ひとりはじっこで頬をつきぼんやりとそんなことを考えていました。





忘れはしないよ。

2012-12-08 00:13:57 | ひとしずく。
むかし犬を飼っていました。

白と茶色の雑種犬で、賢くておバカでとてもかわいい犬でした。


名前はボクといって、15歳まで生きました。


上手に愛情をそそぐことはできなかったけど、大好きな犬でした。



ボクは死なないとおもっていたから、ボクが死んでしまったときはびっくりして、とっても悲しくて、
大人になってから初めて声をあげて泣きました。


それから一週間ほどは、仕事からの帰りみち自転車にのりながら大泣きしたり、
ボクがいないという事実にうちのめされては、なにかっていうと泣いてばかりいました。

ボクのために知らず知らずのうちに身についていた自分の癖を発見しては、
「あ、そうかいないのか」と気づいてまた泣きました。



だけど、ある日を境にわたしはぱったり泣かなくなりました。


気づいたんです。


ボクが生きているあいだ、ボクがわたしにくれたものは悲しみでないと。


ボクがくれたものは、いつだって優しいふわふわした気持ちだったと。


だから、ボクを思い出すときは悲しい気持ちで思い出すのではなくて、
優しいやわらかな気持ちで思い出そうって。


ボクがいてわたしは幸せだったと、自分の気持ちをもってそれをボクに証明しようって。



たくさん意地悪したり叩いたりもしてしまったから後悔も懺悔もあるけれど、
それすら忘れないでいようと決めています。



ボクの命日でもなんでもないのに、
なにゆえいきなりこんなことを書いたかと申しますと、
YouTubeで音楽聴いてたら関連動画になぜかこれがくいこんできたからだ。



このわんちゃん、ボクにくりそつなの。

配色も、鼻の長さも、耳の大きさも、この態度も、富士額模様まで(笑)


それでいろいろ思いだしていたの。



今でもわたしの心を和ます。





琳派芸術Ⅱ

2012-12-03 16:54:09 | おでかけ。



@出光美術館。


わたしの酒井抱一は、
以前にテレビで見た「夏秋草図屏風」に一目惚れしたのがはじまりです。


出光美術館では昨年3月に江戸琳派の祖のひとり、酒井抱一の生誕250年を記念した酒井抱一展を開催していて、
それを見に行く予定でいたのですが途中で中止となってしまいました。


今年4月の京都旅行中に、
細見美術館で各地を巡回していたこの展覧会に巡りあうことができて見ることができたのですが、
出光美術館が改めて酒井抱一をふくめた江戸琳派の展覧会を開催するとしり見にいってまいりました。


と、ここまで知ったふうに「江戸琳派」だのなんだのと書いていますが、
それがどういった作風なのかとか特徴とかはよくわかりません。


ただ好きな感じのものがたくさんある、ってだけのこと。



そう、好きな感じのものがたくさんあるんです。



今回の展覧会では、細見美術館には展示されていなかった酒井抱一の「紅白梅図屏風」が、
会場はいっていきなりの部屋に展示されていました。

一面の銀箔に白梅と紅梅が描かれていて、めちゃくちゃかっこいいのです。

なにかの裏絵だったと推測されていて銀箔が黒くならずに、
冷たい印象を与える銀色のまま今に残されています。



たとえば枯れ葉や虫たちも、季節の移り変わりに生じる流れとか、移ろい、風向きとか、
そんなふうに見えている世界をそのまんまで、
どう表現したらより可愛くとか素敵にとか愛おしくとか、一生懸命考えて絵を描いたのかもしれないなと、
そうゆう考えにたどり着くような絵たちばかりで、やはり好きだなとおもうのです。


銀座教文館のハウス・オブ・クリスマス。

2012-12-02 11:09:23 | おでかけ。
藤城清治さんのクリスマスの切り絵が無料で展示されると、以前来たときにお知らせをいただいたので来てみたら、
藤城清治さんの作品は数点展示されているだけで、ほとんどがクリスマスグッズの売り場でした。


銀座の教文館は戦後に建てられた古いビルで、華美な部分はないのですが、
それでも低い天井やせまい階段、丸みをおびた手すりなど、
あたたかな色をした昭和を感じさせてくれる建物です。


ふつうの本を売ってるふつうの本屋さんとして機能してますが、
キリスト教の本やグッズもたくさん売っているので、たぶんキリスト教関連のビルです。


毎年クリスマスの時期にはクリスマスをお祝いするために必要なオーナメントやカードなどの、
クリスマスグッズが販売されているようです。


教文館でBGMとして流れているクリスマスの曲を聴きながら、
クリスマスグッズをあれこれ見ていたら、ふと懐かしい気持ちになりました。



イベントとしてのクリスマスも飾りつけやイルミネーションが素敵だったり、
ケーキやラッピングもかわいくて好きなのですが、
教文館で感じた懐かしい気持ちは、本来クリスマスとはこうゆうものじゃないかなって思い出させてくれるものでした。



   ここにいることに感謝をし、

   それを家族や友人たちと喜び合い、

   そしてささやかなご馳走やプレゼントで祝い合い、

   だれかの幸せを敬虔な気持ちで祈るような。

   やわらかな金色の暖かな光を灯しながら。



それを思い出したら、そこに幼いころクリスマスに感じていた幸せな風景がひろがり、
とても暖かな気持ちになりました。



クリスマスのカードを何枚か買おうとおもったのですが、かわいいのばかりで選べず、
でもなにか買いたかったので缶がかわいいチョコレートのお菓子を買って帰ってきました。