この広い世界を。

可愛い歳月。
思ったことの記録。

柿のジャム作りました。

2011-10-27 11:48:29 | へたくそながら。
今の季節はあちらこちらで鈴なりに実った柿が見られます。


かさかさと乾いた茶色をしたもろい枝についた、優しいお日さま色の柿。

それを眺めては、枝についた果実はほんとうにかわいいなとしみじみおもうのです。



柿をたくさんいただくのですが、じつはわたしあんまり柿が得意ではないのです。


たくさんいただいても母しか食べないのでダメにしてしまうなーと、
思いついてジャムにしてみました。



お砂糖はいつものきび砂糖にしてみましたが、半分くらい黒糖でもおいしいかも。


仕上げには、これまたいただきものの柚子をしぼり、バターをひとかけ、そしてブランデーエッセンスで香りづけ。



美味しい季節のジャムができました。

宝物の鍵。

2011-10-15 13:48:14 | ひとりごと。
君はなにか勘違いをしているようだ。


宝物の鍵は、光できらめく宝石のなかにしか隠されていないと思いこんでいたのかい?


宝物の鍵は宝石のなかにも隠されている場合もたまにはある、ということなんだよ。



君がさがす宝物の鍵は、君の苦手なもののなかにあったり、
見たくないもののなかにもあったり、苛立つことや悲しみのなかにもあったりするんだ。



いや、宝物の鍵はそうゆうものを見たときの、
自分の心のなかにあると言ったほうが正解かもしれない。



そうして、宝物の鍵が隠されている自分の心のなかを、
何かを装う自分の心のなかを、丁寧に観察しながら、

自分自身で優しくなぐさめながら、ときに驚きながら、
ときに笑い、ときに泣きながら、そんなふうにして探すんだ。



そしてかならず、鍵は君の真実とともにあるんだ。



そうして探しあてた宝物の鍵をつかい開けたものは、

ほんものの宝石なんか目じゃないくらいのお宝なのさ。




わたしにわかっているのはこの程度のおとぎ話し。




君がこの話をどこまで理解してくれるかはわからない。


だけど、これだけは言えるんだ。




この愛はメッセージ!祈り!光!続きをもっと聞かして!(オザケン、パクり。ドはまり中)



この愛はメッセージ。

僕にとって祈り。

僕にとって射す光。(パクり)



東京大神宮。

2011-10-15 11:04:50 | おでかけ。
昨日は用事があっておでかけでした。


午前中でその用事は終わったので、なんとなく東京大神宮へ行ってみることにしました。


新宿から中央線にのり、最寄り駅の飯田橋を目指します。


電車にのりぼんやりしていて気がついたら、なんと次が東京駅!
(行き過ぎるにも程がある乗り過ごし)


行くのやめよかな、と東京駅から山手線にのりましたが、
やっぱり行こうかなぁと秋葉原で降り総武線にのりました。



何年か前、すこしのあいだ受けていた講座の会場が飯田橋だったので、
そのとき飯田橋にくるたびに東京大神宮にお参りしていました。


電車とホームのあいだがデンジャラスに開きすぎてる飯田橋駅で電車を降り、
てくてくと東京大神宮へ向かいます。


東京大神宮は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)の神さまがお祀りされていて、
この神さまたちは日本の総氏神の伊勢神宮の内宮・外宮の神さまなので、
東京大神宮は東京のお伊勢さまと呼ばれているそうです。


以前から縁結びの神さまとして人気の神社です。


東京大神宮の階段をのぼり、お浄めをするため鳥居の手前の右側にある御手洗(みたらし)に向かいびっくり。


ものすごい水が清らかできれい!

できることならごくごくのみたかったくらい(笑)



参拝されている方はやはり女子が多かったです。


とてもかわいらしいお願い事をたずさえ、お参りにきているのだなぁとおもうと、
真剣におみくじを読んでいる姿はなんだか微笑ましい風景です。



わたしはなぜか急に思いたち、
お返しするタイミングを逃していたいくつかのお守りと、
これは死ぬまで持っていようとあのとき誓った小さなお守りを、
納札所に十円玉をいれ手をあわせすべて置いてきました。



強烈な音楽がかかり、生の意味を知るような時。

2011-10-13 01:52:29 | ひとしずく。

YouTubeで小沢健二の動画をあれこれみていたりするんですけれども、
コメント欄に、元ネタはなんですか?とか、元ネタは○○です、というような、
気になるコメントがいくつかあったんです。


…。

はてはて。元ネタ?とは?なんぞや?



持ち前のヲタ魂を発揮してあちこち調べてみたら、
小沢健二のほとんどの曲には元になる曲があって、
それをサンプリングして曲をつくっていたんですって。
(ヒップホップなどではサンプリングはよくある手法なんですって)


ま、簡単にいうとパクリですね。


それは有名なはなしだったらしいし、
彼が自らの意志で表舞台からおりて13年もたつので今さらなんですが。




で、小沢健二はそれをどうやら確信犯だったらしいんですね。

彼なりの哲学にのっとって悪びれず堂々とそれをやっていたみたいなんです。





そこで、わたしは考えてしまうのです。


オリジナリティーとはなんぞや?と。



わたしはいつも逃げてしまう。自分から逃げてしまう。
責任転嫁をしてしまう。もしくはそうする準備をいつもしている。

たとえば「○○さんが言っていた」とか、「○○がそう言っていたから」とか、
そんなような台詞でいつもいつもにげている。

攻撃されることや傷つくこと、恥をかくことなんかから逃げる準備をしている。


だけど、ほんとうのオリジナリティーはどこにあるんだろうって考えたとき、
「○○さんが言っていた」というような言葉で逃げた気になっていても、
逃げることなんかできないんだっておもったんです。


『わたし』というフィルターを通したのなら、どんなことでもどんな言葉でも、

それはすべて『わたし』の言葉だと気づいたんです。


わたしの言葉、わたしの感情、わたしの考え、
わたしの行動、わたしの見るもの。


わたしというフィルターを通したのなら、それはすべて『わたし』です。


わたしがあるから、すべてはすべてとして存在しているんだなぁとおもうんです。



わたしはわたしに無責任であって、

わたしはわたしでいる度胸すらなかったのです。


どんなわたしであろうと、わたしがわたしであるということに腹をくくったとき、

そのときはじめて快感をしるのだとおもいます。



たったひとつのオリジナリティーが光をもつのだとおもいます。



マロングラッセもどき作成。

2011-10-11 23:00:36 | へたくそながら。
ぷっくりと大きな栗をいただきました。


栗は“くり”とゆう語感もかわいらしいですし、
茶色とおしりのとこの焦げ茶色のコントラスト、頭のとんがりの小さな毛もなんだかかわいらしいです。



その栗を渋皮煮にしてみました。



栗の皮をむくのははじめてのことなので、渋皮をどこまでむけばよいのかわからず、
身をけっこう壊してしまいました。(そのわりにきれいにむけてない)



シナモン、ジンジャー、バニラエッセンス、ブランデーエッセンスで好きな風味にしてみたけれど、
お砂糖は適当にいれたので(出た、適当)、甘さが足りなかったなー。