丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 5

2009年06月01日 | 作り話
 宏美は目を開けた。頭が痺れたようにぼうっとしている。居間の絨毯の上で横たわっている事に気が付くまでしばらくかかった。のろのろと身体を起こす。申し訳程度に身体にかけられていた毛布がずり落ちた。エアコンが効いているとはいえ、むき出しの肩は寒い。毛布を肩までかけ直し、自分の身体を抱きしめた。
 しんとした静寂と微かなエアコンの風の音。さっきまでの出来事が夢の中かと思われるような静けさだ。しかしその静けさとは対照的に嵐の後のような散らかりようの部屋の様相が宏美を現実へと引き戻した。ソファーもテーブルも随分と移動していた。あちらこちらに無理やり剥ぎ取られたセーターや下着が散乱している。
 部屋の中に田牧の気配はなかった。宏美が朦朧としている間に帰ったらしい。慰めも、謝りもせず、なんの余韻も残さず、自分の欲望だけをぶちまけて……。
 田牧に鷲づかみにされた髪はひどく乱れていた。宏美は震える手で髪を梳く。髪が引き連れるたびに、田牧の乱暴な恐ろしい力が甦る。
 ベッドではなく、床の上で、ねじ伏せられ、組み伏せられ、力で無理やり犯された。無理やりだったはずなのに、いつの間にか身体が反応していた。拒否していたはずなのに、あれほど忘れようとあがいていたのに、自分の中の何かが弾けとんでしまった。そして気がつけば、獣のように交わっていた……。
 突然、嫌悪と後悔と羞恥とが津波のように一気に押し寄せ、宏美は吐き気に襲われた。
 這うようにして浴室へ向かい、シャワーの栓を思い切り開いた。水が湯に変わるまでの間がもどかしい。ふと目に留まった洗面所の鏡に映った自分の身体には田牧の唇の痕が花びらを散らしたようにあちこちに残されていた。そして同時に禍々しい熱を帯びた田牧の残滓が生き物のように内腿をゆっくりと伝っていくのを感じた。宏美の身体を喰らい尽くす、白い、細い、いやらしい蛇。
 宏美は反射的にシャワーを掴むとまだ湯になりきらない水を身体に当て、一気にその蛇を洗い流した。そして狂ったように全身を洗う。頭の先から足の先まで、そして身体の中まで、田牧の残した全ての痕跡を洗い流したかった。田牧に屈した自分を水に溶かして流してしまいたかった。


 年度末になると慌ただしく会社全体が動き始める。業務課も例外ではなく宏美も毎日のように残業しなければならない状況が続いていた。
 宏美にとっては忙しい方が良かった。田牧との件の後、落ち込む日が続いていた。家にいると不安になるのだ。特に週末が近づくと、家にいるのが怖かった。田牧がまた訪れるのではないか、田牧が来たらまたずるずると関係を持ってしまうのではないか、そんな思いが心の中に煙のように立ち込める。本当にもう手を引きたい。でも会えばまた田牧に屈してしまう。それをどこかで望んでいる自分がいることもわかっていた。
 携帯電話は田牧の番号を着信拒否にしてある。仕事中は極力直接顔を合わせないように都合をつけた。用事がある時は内線電話か、課内の樹里に頼むようにしていた。
 八時を過ぎ、ようやく宏美は自分のパソコンの電源を落とした。同じように残業をしていた樹里も帰り支度を始めている。
「主任、帰ります?」
「うん。お疲れさま」
 宏美は伸びをしながら樹里に笑みを見せた。樹里が近づいてくる。
「主任、大丈夫ですか?」
「ん?」
 樹里が心配そうに宏美を見つめる。
「最近、顔色悪いですよ。痩せたみたいだし。働きすぎですって」
 宏美は苦笑いを浮かべる。よく見ている子だ。実際に秋からこっち七キロ近く体重が落ちていた。原因は言わずもがな、だ。
「樹里ちゃん、夕ご飯どうするの? おうちに帰ってから?」
「いいえ~、もうこの時間だもん、作るの嫌ですぅ」
 樹里は友人とルームシェアをしているらしい。その友人とは家事は完全に別にしているらしく、実質一人暮らしのようなものだと樹里は言っていた。
「お友達は作ってくれてないの?」
「ありえませんね。第一、彼女の料理なんて恐ろしくて」
 樹里はケラケラと笑う。
「そう、じゃ、夕ご飯、付き合ってくれる?」
「え、いいんですか~?」
 二人はまだ数人残っているオフィスを後にした。廊下を歩いていると会議室から出てきた田牧とすれ違う。
「お疲れさま」
 田牧が二人に声をかけた。
「失礼します」
 宏美は目を合わさずにつっけんどんな調子で頭を下げるとすっと通り過ぎる。
 一瞬田牧の絡みつくような粘っこい視線を感じたが、あえて無視した。歩きながらショルダーバッグのヒモをきつく握り締めていた。
 
 二人は会社の近くの小さなレストランに入った。樹里や他の若い女子社員がよく利用しているらしい。
 二人で向かい合って座り、お手拭で手を拭いていると樹里が改まった調子で口を開いた。
「主任、私、気になってるんですけど」
「なに?」
「部長と何かあったんですか?」
 宏美の手が一瞬止まる。
「何かって、何? なんか、変?」
 出来るだけ自然に振舞おうとするが、小刻みに指が震える。
「なんか最近部長の事、避けてるみたいに見えるから」
「……そんな事ないわよ」
 宏美は無理やり笑顔を作ってみせた。
「部長、本社に戻るみたいですよ」
「え?」
 思わず樹里の顔を見つめる。
「そうなの?」
「人事課からちらっとそんな話を小耳に挟んで。まだオープンじゃないですけど」
「……」
 この二ヶ月近く、田牧からの連絡の一切を断っていたのでそんな話はこれっぽっちも知らなかった。
「部長が本社に戻ったら寂しい思いする女の子も多いんじゃないの?」
 宏美はわざと軽口をたたく。一番寂しい思いをするのは自分だ。田牧がいなくなる。その事実は宏美の心をゆっくりとかき混ぜ始めた。かき混ぜられた心の中は、ありとあらゆる感情が全て一緒くたになってどろどろのカオスとなっていた。
 樹里が会社の中の人間関係の話を無邪気に話し始める。その合間に空ろな相槌を打ちながら、頭の中では田牧と、田牧と過ごした時間が揺らめきながら甦り、そして消えていく。それはまるで蜃気楼のようだった。頭の中の血液がゆっくりと下がり、ふうっと意識が途切れてしまいそうになる。
「主任! 大丈夫ですか?」
 樹里が慌ててテーブルの上に置かれていた宏美の手を強く握った。
「顔、真っ青ですよ?」
 宏美はふいに我に返った。貧血の後の気分の悪さだろうか。気分が悪い。気持ちの悪い生唾が大量に込み上げてくる。このままでは樹里の前で見苦しいことになりそうだ。全身の脱力と共に、お腹も痛くなってきた。
「……ごめん、樹里ちゃん。トイレ、行ってくる」
 ふらふらと立ち上がるが、立ちくらみがしてテーブルの端にしがみつくようにうずくまった。
「主任!」
 樹里が慌てて宏美の身体を支える。
「立てますか? 気分悪い?」
 樹里の肩にしがみつくようにしてふらふらと立ち上がる。と、同時に身体から何かが流れ出した。生理の時の、あの感覚だ。
「……あ」
 宏美は思わず足元を見る。スカートから覗いている内股に紅い一筋の線がゆっくりと這い下りてくる。その紅い紐は膝の裏を伝い、足元へと辿り着く。この紅い紐は一体、何? まるで意識が身体から流れ出していくような……。
 無意識に下腹部を抱え込むように押さえ、宏美はその場に崩れ落ちた。
 
      *

 ベッドに横たわった宏美はぼんやりと白い天井を見上げていた。腕には点滴のチューブが繋がっている。頭の中は真っ白で何も考えられなかった。
 先程病室を訪れた若い男の医者が言った言葉が頭をぐるぐると回っている。
「残念ですが、流産です」
 マスクで覆われた口元がもごもごと動くのを見ながら宏美の思考はそこで停止した。
 あの時の交わりで妊娠したのだ。その後、生理がこなかったが元々不順だったところに、年度末の忙しさで気がつかなかった。気分がすぐれないのも、ストレスだと信じきっていた……。
 命とはもっと清らかで純粋な交わりの中で授かり、温かい感情と愛情に包まれて育まれていくものではないのか? 私と田牧のような、こんな爛れた関係でも命を生み出してしまうなんて、思いもよらなかった。
 もし、この命が流れ出ていかなかったら、蜃気楼の中の楽園は私の前に現実の物として現れただろうか。この小さな命が楽園へのパスポートになっただろうか。
 いや、仮にこのまま妊娠が成立したとして、私はこの命を産み落とそうと思っただろうか。田牧との間の子供だ。歓迎される存在ではない。田牧が認知する? ありえない。きっといずれは闇へと葬られる運命の子だったのだ。だからこそ、この子は自ら私の中から出て行ったのだ……。
 天井を見つめる宏美の目から涙が流れて落ちる。私は一体何をやってるのだろう……。莫迦だ。

 退院してすぐに宏美は会社に復帰することにした。復帰する前の日の晩に樹里に電話をかけ、礼を言った。樹里には結局何から何まで世話になったのだ。入院の手続きや用意、退院の手伝いまで親身になって手伝ってくれた。診断名についても知っているが、それについてなんの詮索もしなかった。
「会社には風邪をこじらせたって言ってありますから」
「ありがとう。本当に迷惑かけちゃって……」
 宏美が礼を言うと樹里はくどくどと説教を始めた。
「まだ出社したらダメですよ。主任、無理しすぎです。もうしばらく休んだらどうですか。お医者さんだって二週間は安静にって言ってたじゃないですか。診断書出して、しばらく休むべきですよ!」
「診断書は……出さない。有給がいっぱいあるから、有給で処理するわ」
 診断書を出せば流産という事がばれてしまう。妊娠して、流産したという事実を、田牧には知られたくなかった。
「それに、この年度末にそんな悠長な事」
「何を莫迦な事言ってるんですか! いくら年度末が忙しいからって、身体壊しちゃ元も子もないでしょ! 確かに主任が不在だと大変ですけど、その辺は部下を信じてくださいよ。大丈夫です、なんとかしますから。たまには人に任せることもしなくちゃダメなんですよ」
 樹里は自分よりも年下だが、まるで母親のようだ。宏美は苦笑いした。実家の親にもまだ報告していない。恐らく一生言わないだろう。
「それに……部長に言わなくていいんですか?」
「……」
 樹里の言葉に宏美は黙り込んだ。
「相手は部長なんでしょう? このまま黙って終わらせていいんですか?」
 樹里の声が真剣に怒っているのが手に取るようにわかる。
「……知ってたの?」
「わかりますよ、お二人見てたら。部長が誰かと不倫してるんじゃないかって話は前から噂になってたし……。何年同じ課で仕事してると思ってるんです?」
「田牧さんに言ったの?」
「まさか。言うならご自分で言ってください。そりゃ、頼まれれば言いますけど、ついでに蹴りもいれますよ」
 樹里の不機嫌な声に宏美は思わず小さく笑った。
「私が蹴りいれるならともかく、あなたが田牧さんに蹴りいれてどうするのよ」
「だって腹立つじゃないですか。このまま涼しい顔で、一人で本社に帰るんですよ? いいんですか?」
 宏美は溜息をついた。
「大人だから……お互い。わかってて付き合ってたんだから……」
 そう。最初からわかってたことだ。ただの火遊び。何も生まない関係。田牧はこのまま本社に帰る。何も無かったことにして。そう、全て私の望んだまま。それでいい……。
「本当にそんな事、思ってるんですか? 主任一人が貧乏くじ引いて、それで本当にいいんですか? 何、大人の女ぶってるんですか。 ものわかりいい女なんて、そんなの、ただの都合のいい女ですよ!」
 樹里の厳しい言葉が宏美の心に突き刺さる。同じ言葉を田牧の口から聞いた事があった。「大人の女はものわかりが良くて……」。そう、自分は都合のいい女に過ぎないのかと、その時思ったのだ。胸が苦しくなり、うずくまる自分の姿がプレイバックする。
「樹里ちゃん、もう止めて」
 宏美は思わず叫んだ。
「そんな事、言われなくても自分が一番わかってる。樹里ちゃんにまで言われたら、私……」
 情けないと思いながら涙が込み上げてくるのを止められなかった。
「すみません、言いすぎました……」
 樹里が電話口の向こうで慌てているのがわかる。
「でも、主任、誤解しないで下さい。主任が傷ついているのを観て見ぬふりは出来ないと思って……。主任にはさんざんお世話になってますし、私にとってはお姉さんみたいな存在だし……。お節介だとはわかってるんですけど。とにかく、お願いですから、無理しないで下さい。何でも手伝いますから」
 樹里が必死になって言葉をつないでくれる。宏美は受話器を握り締めながら、頷いた。

 復帰してから宏美はいつもと同じペースで仕事をこなしていた。時々樹里がこっそりと体調をうかがってくるが、無理やり笑顔を作って空元気を装った。
 時々崩れ落ちそうになるような倦怠感や目眩もするが、そんな事はどうでも良かった。倒れるなら倒れればいい。このまま自分が壊れてしまえばいい。こんな愚かな自分なんぞ、このまま疲弊して磨耗して、粉々になって消えてしまえばいい。投げやりな感情が宏美のアクセルを踏み続けていた。
 可笑しなもので、空元気でも虚勢でもその気になればとりあえず人は生きていけるらしい。家に帰るなりトイレに駆け込んで、胃がひっくりかえるほど吐いたとしても、朝の電車の中で貧血を起こして、途中下車した駅のホームのベンチでうずくまっていても、宏美の身体は毎日の生活を送ろうとあがくのだ。自分の身体が自分の物でないような、心がどこか離れたところで自分を眺めているような、そんな乖離した感覚が苦痛を和らげている。空っぽになった宏美を何かが操っている、そんな気がした。

 どうにかこうにか年度末の修羅場を乗り切り、新しい年度が巡ってきた。人事異動の辞令が正式に発布され、樹里から聞いた通り、田牧の異動が発表された。
 宏美はぼんやりと掲示板に張り出された辞令を眺めた。周りの雑談も、人の足音も耳に入らない。全てがぼやけて現実味を失っていた。時間の流れさえも止まってしまったような気がした。
 これで全てが終わるのだ。田牧は自分の前からいなくなる。望んでいた通りに田牧から解放される。ようやく麻薬から逃れることが出来る。なのに何故少しも嬉しくないのだろう。なんの安堵感も、開放感もない。心の底にぽっかりと空虚な穴が開いたような気がする。そこからは寒々しい風が隙間風のように吹き込んでくる。そしてその隙間風は宏美の心の輪郭をさらさらと風化させ、その存在を消してしまいそうだった。
 残された時間は長くはない。もう一週間もすれば田牧は本社に帰る。麻痺した頭に囁きが聞こえる。このままでいいのか。本当にこのままでいいのか? 宏美の心の穴から何かがざわざわと蠢めきながら這い出ようとしていた。

6に続く

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