丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 6 (最終話)

2009年06月02日 | 作り話
 田牧は自分のデスクを片付けるため、オフィスに残っていた。明日の朝には荷物を社内便で送ってもらう。明日の自分の仕事は各部署へのあいさつ回りだけだ。三年足らずの間だったが、結構色々と物が増えている。こまごました物を詰め込んだダンボール箱が三つ、四つと増えていき、デスクの上には乗り切らない。
 ふうっと大きな息を着くと壁にかかった時計を見た。もう九時近い。
「そろそろ帰るか……」
 オフィスには既に人気はなく、広々としたフロアーで灯りが着いているのは田牧のデスク周辺だけだった。
 明日の段取りをアレコレ考えながら、ハンガーにかけてある上着を羽織った時、背後で人の気配を感じてぎくっとした。振り向くとパーテーションの陰からゆらりと人が出てきた。
「宏美……。おどろかすなよ」
 思わず声を上げる。白い、小さな顔はここしばらくの間で随分と痩せたように見える。
「いよいよ明日で終わりね。ご栄転おめでとうございます」
 冷ややかな表情を浮かべた宏美はわざとらしく頭を下げた。
「なんだよ、急に」
 田牧は開き直ったように宏美に向き直ると僅かに口元をゆがめた。
「ずっとシカトしてたのに、今頃どうしたの? 寂しくなった?」
 皮肉っぽい口調に、宏美は後ろのデスクにもたれると頸をかしげた。
「寂しい……そうね。ずっと寂しかったのかも」
 視線を足元に投げかけ、伏せた睫毛が小さく震えているように見えた。田牧はゆっくりと宏美に歩み寄る。不意に手を伸ばし、宏美の顎に手をかけると自分の方へと向けた。宏美は抵抗することなく顔を上げ、田牧を上目遣いで見つめた。視線が絡み合う。
「随分長い事ヘソ曲げてたよな。仲直り、したいって?」
 田牧は両手で宏美の肩を掴むと、そのままデスクの上に押し倒そうとする。宏美は両の肘をデスクに当てると上半身をなんとか保った。
「月に一度は会議でこっちに来る。会おうと思えば、いつでも会える、だろ?」
 田牧は宏美の首筋に顔を埋め、更に体重をかける。膝を使って宏美の両脚を割った。なんだかんだ言っても、コイツは自分から離れる事はない。その証拠にこうやって身体を開こうとしている。単身赴任最後の情事として、このまま、この場で、この女を味わうのも悪くない。そんな残酷な欲望が田牧の中に渦巻いているのが伝わってくる。
「……赤ちゃんが出来たの」
 突然宏美が無機質な声で呟いた。田牧の動きが止まる。赤ちゃん? 
「この前よ。身に覚えがないなんて言わないよね?」
 田牧は思わず身体を引こうとしたが、今度は宏美が田牧の背中を両手で抱きしめた。支えのない宏美の上半身はそのままデスクの上に仰向けに倒れ、田牧が押し倒したような形になった。宏美の手に力が込められる。
「ヤりたいからヤッただけ。なのに子供って出来るのね。そんな事、考えたことなかったんじゃない?」
 感情をどこかに置き忘れたような冷え切った声が耳元で響き、田牧は背筋が寒くなった。
「……離せ」
 宏美の身体から手を離し、なんとか身体を起こそうとするが宏美の身体は石のように重い。田牧の背中に回されている手は蔦のようにまとわりつき、離れそうになかった。
「なんで? このまま、ここでやりたいんでしょ? どうぞ。この間みたいに、やってよ」
 台詞とは不釣合いなぐらいに低い、凍りつくような声。田牧は宏美を引き離そうともがいたが、不自然な姿勢のままもがいているだけで宏美の呪縛から逃れられない。
「ちょっと、待て、とにかく離せ!」
「今まで通りだって言ったわよね。別れないって、あの時言ったわよね?」
 唄うように呟きながら絡みついてくる女が得体の知れない妖怪に思える。田牧は必死で宏美の身体から逃れ、勢い余って床の上に転げ落ちた。
 宏美はゆっくりと身体を起こすと上から田牧を見下ろす。
「なんで逃げるの」
 じわじわと身をかがめ、田牧の上に覆いかぶさる。宏美の髪が田牧の顔に触れた。手を伸ばし、田牧のネクタイを緩めるとシュルシュルと抜いていく。
「どう? これで縛ってみる? ……ずっと縛り付けていてもいいのよ? そうしたかったんでしょ?」
「宏美、お前、どうかしてるぞ……」
 田牧は震える声を振り絞った。薄暗いオフィスの中で、異様な光を宿した瞳に田牧は戦慄した。完全に正気を失っているとしか思えない。
「赤ちゃんの事、どうする? 奥さん、今まで通り知らん振りしてくれるかしら? ねえ、どう思う?」
「産むなんて言うんじゃないだろう? 宏美、悪い冗談は止めろよ」
 田牧は無理に笑いながらそう振り絞るように言った。宏美は小首をかしげる。
「なんで? 冗談なんかじゃないわよ。産んじゃだめなんて言うの? 本気よ、私」
「莫迦な事、言うなよ! ありえないだろ、そんな事!」
 田牧は思わず怒鳴る。宏美は顔をじわりと田牧に近付けた。唇が触れそうな距離。抜いたネクタイをゆっくりと田牧の頸に巻きつける。このまま絞められるのではないかという恐怖に、田牧の身体は小刻みに震え、冷たい汗が背筋を流れていく。
「なんで? 子供がいればなによりも強い鎖になって、私を縛り付けてくれるわよ? セックスなんかよりもよっぽど確実に。私、あなたから離れられなくなる」
 宏美の指がネクタイの端を握り締めるのが見えた。じわじわとネクタイの輪が狭まってくるような気がした。
「いい加減にしろ!」
 田牧は悲鳴にも似た声を上げると、宏美の手を握り、ネクタイを奪い取った。頸からそれを外し床に投げ捨てると、そのまま宏美の細い頸に手をかける。
「やめろやめろやめろ!」
 無我夢中で喚き続ける。無意識のうちに思い切り宏美の喉を締め上げていた。ぐうっと言う唸り声ではっと我に返り、慌てて宏美の喉を解放する。
 宏美はその場に倒れこみ、激しく咳き込んだ。
「宏美!」
 慌てて宏美の顔を覗き込む。顔を紅潮させ、髪を乱して咳き込んでいる宏美の背中をうろたえながらさする。
 しばらくして宏美は顔を上げ、田牧を見た。宏美の目からは涙が流れていた。
「嘘、よ……。赤ちゃん……、流れ……ちゃった。お腹は……空っぽ」
 喘ぎながら呟く。田牧は石になったように動きを止めた。何を言っているのか理解できない。そんなマヌケな顔で、だらしなく口を半開きにしてまじまじと宏美を見ている。
 長い沈黙が続いた。ふいに宏美が嗤いだした。涙で流れてしまったマスカラを指で拭い取り、田牧のワイシャツの胸になすりつける。白いシャツに灰色の涙の後が細く長く残る。それがまた滑稽で、宏美は泣きながら嗤う。
 息も絶え絶えになるほど嗤い続けていたが、やがて宏美はよろろよろと立ち上がった。デスクに両手をついて肩で息をしながら、ようやく嗤うのをやめる。そしておもむろに空虚な瞳で田牧を見下ろし、慇懃無礼に頭を下げた。
「さようなら、お世話になりました。田牧部長」
 そしてまた壊れたように嗤いながら、ふらふらと歩き出す。時々パーテーションにぶつかりながら、宏美の姿はオフィスの闇の中に消えていった。
置き去りの田牧の耳にはいつまでも宏美の哄笑が響いていた。

     *

 梅雨が明ける頃、宏美は久しぶりにシャンティに現れた。週末の、少し早いランチタイム。店の中の客の姿はまばらだったが、相変わらず食欲をそそるいい香りと、厨房からの異国語が微かに漂っている。
「久しぶりですね、中川さん」
 オーナーである原田はいつもの人懐こい笑顔で宏美を迎え入れた。
「おや、久しくお見かけしないと思ったら、随分とイメチェンですね」
 宏美は照れ笑いしながら短く切った髪を一つまみ引っ張った。
「ちょっと短くしすぎちゃって、中学生みたいになっちゃったかも」
「そんな事ないですよ。ますます若くて可愛らしい。お似合いです」
 宏美はいつものカウンター席についた。
「女性が髪を切るのは失恋した時だって言いますけど?」
 原田は髭面に悪戯っ子のような笑みを浮かべながらお冷の入ったグラスを宏美の前に置いた。宏美はそれには答えず、苦笑いを浮かべた。
「刺激物食べるの久しぶりなんですよ。ちょっと胃を悪くしちゃて」
 宏美がメニューを開きながら言うと原田はうーん……と唸ってメニューを指差した。
「じゃあ、この辺はいかがですか。野菜ベースで、辛さはお子様仕様にしましょうか?」
 冗談とも本気とも取れるような原田の言葉に宏美は思わず笑い出した。
「じゃ、かぼちゃとチキン。お子様仕様でお願いします」
「はい。かしこまりました」
 原田が髭面に人懐っこい笑顔を浮かべながら厨房に入っていく。宏美はその姿を見送りながら、久しぶりの空気をゆっくりと吸い込んだ。相変わらず刺激的な香辛料の匂い。ここしばらくは身体が香辛料を受け付けつけず、香辛料は避けてきた。最近になってようやく普通に食べられるようになったのだ。そうなったら急にシャンティの空気が懐かしくなった。
 宏美はおしぼりで手を拭きながら、ぼんやりと思いをめぐらせた。
 あの時何故あんな事をしたのか、自分でもわからない。田牧に復讐したかったのか。自分の想いをぶつけたかっただけのか。恨み言をいいたかったのか。あの場で抱かれたかっただけなのか。どれもそうだとも言えるし、どれも違うような気がする。ただ言えるのは、確かにあの時の自分は壊れていた。制御不能になった自分の感情に翻弄されるがまま、身体が動いた。
 よくよく考えれば情けない事をしたと思う。田牧から見れば、いや誰が見ても、あの時の宏美は正気ではなかった。頭がおかしくなったと言われても反論出来ない。自分でも狂ってしまったのかと思ったのだから……。
 あの後、二日間寝込んでしまった。何をする気にもなれず、ベッドの上でさなぎのように丸まってひたすらぼんやりと過ごした。蝶になり損ねて、そのまま死んでしまうさなぎのように、このままひからびてしまうかもしれない。それも悪くない。そんな事をぼんやりと思っていた。
 それが二日目の昼過ぎ、お腹が鳴った。マヌケな音で、キュルキュルと。その音と、空腹感が妙に可笑しくて宏美は一人でくすくすと笑い出した。
 こんなに落ち込んで、死にたいくらい惨めなのに、なんでお腹が減るのか。あの人無しでは生きていけないと思いつめているのに、なんでお腹が鳴るのか。なんと現実とはロマンを解さないことか。そう思うと急に自分の悩みが莫迦莫迦しく思えてきた。そして自分の身体に愛おしさが湧いてきたのだ。宏美は笑いながら、いや泣きながら、這うようにベッドを抜け冷蔵庫の前に立っていた。
 結果的にはこれで良かったのだと思う。田牧は恐れをなしたのか、あれっきりパッタリ音沙汰無しだ。月に一度は会議で出張してくると言っていたはずだが、会議にはテレビ電話での参加が続いているそうだ。なんでも経費削減のためと田牧自身が提案したらしい。
 田牧の事を思い出さないと言えば嘘になる。ふいに田牧の声やぬくもりがフラッシュのように脳裏をよぎり、息苦しいような想いが甦りそうになることもある。しかし以前のような鋭い苦痛と言うよりは次第に鈍いぼやけた痛みへと薄らいできているのも確かだった。時間薬と言うやつだろうか。体調も少しずつ回復してきているようで、通勤途中で倒れたり、激しく嘔吐することも減ってきた。体重も少しずつではあるが、戻ってきているようだ。
 しばらくしてから髪を切った。伸ばしていた髪は田牧の記憶を溜め込んでいるような気がした。田牧が触れた部分の全てをすっぱりと自分の身体から消し去りたかった。そうすれば、これから伸びてくる髪は新しい記憶だけを蓄積していく。
「お久しぶりです」
 ふいに声をかけられ、我に返る。目の前に、サラダボールを手にした慎の姿があった。サラダを宏美の前に置くと照れくさそうに、
「髪、似合ってますよ」
 と、言った。宏美が微笑みを返すと、頬に微かな照れ笑いを浮かべ厨房へと戻っていく。
 穏やかな気分だった。宏美にとってここはまさしくシャンティそのものだ。ゆっくりと流れる時間の中で、心がほどけていくのを感じながら宏美は目を閉じた。
 異国を感じさせる香りと空気。でもここに流れている空気は幻のものではなく、確かにそこに自分が存在しているという質量を感じる。それは空気に満ちている香りに、そこはかとない深みを感じるからだろうか。そう、幻には深みも、質量もない。
 出てきたカレーを口に運んでいると原田が声をかけてくる。
「どうですか? 本当にお子様仕様だけど」
「大丈夫。辛くないけど、美味しい」
 宏美が答えると原田は満足そうに頷いた。
「辛さがない分、旨味が引き立つでしょ?」
「辛いだけじゃ旨くない、旨味と深みがあるから旨いんだって。色んな味が馴染んでこそ旨いんだって、慎さんが言ってたっけ」
 そう、いつだったか、慎がそう言った。確かに辛いけど、辛いだけじゃ旨くない。辛い中に色んな味が入って、色んな食材が入って、それが時間をかけてこなれて、馴染んで、それでようやく旨くなる。
「そう、その通り。まあ、なんですな、人生と同じですよ。酸いも甘いもかみ分けて、色んな経験をして、人としての深みが出る。カレーは人生だ! おお、いいキャッチフレーズが出来た」
 原田は豪快に笑い出した。宏美は思わずむせかけて、慌てて水を飲む。
 原田は笑いながら宏美のコップに水を注ぎ足す。宏美は涙目になりながら原田を軽く睨んだ。
「もう、笑わさないでくださいよ」
「失礼失礼。お詫びにラッシー、サービスしますよ」
 原田は笑いながら奥へと引っ込んでいく。
「人生と同じ……か」
 宏美はひとりごちた。
 そう、かもしれない。今までの時間はこれからの私への材料の一つ……。そう自然に思えたら、少しは気楽に生きていけるだろうか。私のような気弱な旅人でも、砂漠の幻に惑わされず、一歩一歩砂を踏みしめて前へ歩いていけるだろうか。
 宏美はカウンターの中の原田と慎をぼんやりと眺めた。あの二人もまた、自分とは全く違った、でもそれぞれ迷い漂いながら道を歩き続けてきた旅人なのだろう。
違う国から流れてきた人間が旅の途中のオアシスで、つかの間の休息を取っている。人の営みを感じさせる空気の中で、語らい、杯を酌み交わす。互いの旅の労苦をねぎらい、疲れを癒し合い、また明日から歩き始めるための活力を与え合う。明日からまた一人で続ける旅が始まる。蜃気楼に惑わされ、迷わされる事もあるかもしれない。でも今は人の温もりを感じたい。穏やかな質量のある平和を味わいたい……。

 宏美は食べ終わった皿を引き上げる慎を見上げた。まともに目が合い、慎が照れくさそうな微笑を頬に浮かべる。
「ラッシー、お持ちします」
「ありがとう」
 宏美の頬にも柔らかな微笑が浮かんだ。
 穏やかな時間がゆったりと流れていく……。

                                    了


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