丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

砂の果ての楽園 4

2009年05月31日 | 作り話
 自分がそれほど惚れっぽい質だとは思わない。田牧にしても、その前にしても、二十代の頃にしても、恋人とは年単位で付き合ってきた。二股は掛けられた事はあっても、自分が掛けたことはない。なのに何故、慎の電話にこれほど揺さぶられるのか。田牧に入れ込んでいるのは確かだ。苦しくなるほど田牧を求めているはずなのに、なぜ慎の言葉に中学生のようにドキドキするのか。
 そんな自問自答を繰り返していると、会社の中で田牧の姿を見ても息苦しさを感じない。田牧のデスクに書類を持っていくのに、胃が痛む事もない。まるで鎮痛剤のような作用で宏美の痛みを和らげてくれるのがわかる。
 宏美の心の中で何かが溶けていくようだった。
 田牧との関係をいつまでも続けていて良いはずがない。田牧にとっては所詮火遊びだ。付き合い続けて、将来田牧と一緒になれるはずもないし、一緒になりたいかと言われて「イエス」とも言えない。刹那的な恋に過ぎない。そんな事は最初からわかっていた。しかし頭ではわかっていても感情と身体が納得しなかった。
 でも今ならこの麻薬から逃れられるかもしれない。田牧の妻が入院し、田牧が自分から遠ざかりつつある。自分は禁断症状に苦しんでいるが、鎮痛剤のお陰でその苦しみが少し軽減してきた。このくらいならいずれは乗り越えられる。そんな気がするのだ。この鎮痛剤は気休めだと言われれば、そうなのかもしれないとも思う。しかし気休めでもなんでも良かった。とにかく禁断症状を抑えられればそれでいい……。

 クリスマスが終わって、世の中は一気に正月気分に模様替えをした。会社は怒涛の十二連休に突入するため仕事の整理に追われる日々が続いた。
 宏美は会社の最終日にシャンティへと足を運んだ。正直少しばかり敷居が高かった。どんな顔で慎に会えばいいのかと思うと柄にもなく躊躇してしまう。それでも年内にはお礼を兼ねて行かなければならない。いや、慎の照れたような、それでいて清清しい微笑みを見たかった。そんな葛藤を続けているうち、最終日になってしまったのだ。
 扉を開けると原田がいつものように陽気な声で迎えてくれた。
「いらっしゃい!」
 カウンターの中で慎が少し照れくさそうに会釈した。宏美も内心照れを感じてはいたが、いつも通りに挨拶をした。
「こんばんは」
 そしていつもの席にかける。原田がメニューとお絞りを渡してくれた。
「今日は仕事、残してませんか?」
「はい。ちゃんと全部片付けてきました。正月休みに突入ですからね」
「いいなあ、サラリーマンは。今年は何連休?」
「十二連休」
 原田は目を剥いてヒュウッと短い口笛を吹く。
「そんなに休んだらボケちゃいますよ、僕は。いや、ボケる前に飢え死にだな」
「お店のオヤスミは?」
「大晦日は八時でオーダーストップさせてもらいます。正月三が日は夜だけ営業。うちは厨房のスタッフがインドの子なのでね、四月の旧正月に三日ほど休ませてもらうんです」
「そうなんだ……。休み無しかぁ。大変ですね」
「サービス業は人が休んでいる時こそ稼ぎ時ですから」
 原田は陽気に笑った。宏美の実家は典型的なサラリーマンの家庭で、父は金融関係の会社に勤め、母は専業主婦だ。二つ違いの弟も公務員をしている。カレンダー通りに一年が過ぎていく。カレンダーから外れた生活なんて想像がつかない。
 宏美はちらっと慎を見た。一心不乱に盛り付けをしている。相変わらず首筋が綺麗だ。
 店の入りは八分程度で少しだがまだ空席もある。しかし年末の追い込みの忘年会らしいグループがはしゃいでいるので、満席の時よりも賑やかなくらいだ。
「すみませんね、賑やかで」
 原田がカウンターから少し身を乗り出してそう言った。そうでもしなければちゃんと宏美に声が届かない。
「いいえ、大丈夫です。今日はお薦めを適当に見繕ってもらっていいですか? カレーって気分じゃないかも」
「いいですよ。じゃ、そうだな、和風に近い感じでチョウメンと、サラダと、サモサくらいでどうですか?」
 チョウメンとは麺料理で、焼きウドンによく似ている。サモサはインド風揚げ餃子とでも言ったところか。
「じゃ、それで」
 宏美のオーダーを受けて原田は厨房へと消えていく。
 宏美はカウンターに肘を置くと頬杖をついた。ぼんやりと厨房を見たり、賑やかな忘年会の集団を横目で見たりしながらゆったりと流れる時間を楽しんだ。やはりここは居心地がいい。刺激的な香辛料の匂い、肉の焼ける匂い、かすかに流れるインド音楽、厨房で聞こえる訛った英語と日本語、賑やかな人のざわめき。日常を忘れるには丁度良かった。目を閉じると自分の周りに広がる空間は異国のような気がする。まるで自分が異邦人になったような、それでいて、遠く懐かしい記憶が甦ってくるような、不思議な気分だ。
「大丈夫ですか?」
 ふいに声をかけられて目を開ける。チョウメンの皿を持った慎が覗き込んでいる。
 宏美は笑い出した。
「大丈夫! なんか心配ばっかりかけてるみたいで、ごめんなさいね」
「目つぶってるからまたしんどくなったのかと……。紛らわしいですよ」
 慎が苦笑いしながら皿を目の前に置いた。
 宏美は食事を取りながら時々慎を目で追う。原田とも勿論楽しく会話をしているが、気付けば視界のどこかに慎がいる。
 気になる? いや、気になるとかそう言うんじゃないような気がするけれど。彼が視界にいるとなんだかほっとする。ほっとする? なんだか言い訳がましい。そう、やっぱり気になるのだ。慎の一挙手一投足が。無駄のない綺麗な動きが。真剣な目で調理をするその姿が。これは、ちょっと気になるクラスメートの男の子をちらちらと横目で眺めている時の気分に似ている。髪をかき上げるクセを見つけたり、鉛筆の持ち方をチェックしたり、小さな発見とささやかな喜びの鎖編み。
 いいわよね、これくらいのトキメキ。密かに初恋の気分を味わうくらい許されるわよね……。随分汚れてくたびれた女になってしまったけれど、これくらいは楽しんだって罰は当たらないわよね。
 そんな事をぼんやり考えていたら、宏美はチョウメンの中の黒い唐辛子をうっかり齧ってしまった。
「ん!」
 火のついたような強烈な辛味が口中に広がり、宏美の夢想は一瞬にして飛び去った。慌てて水を飲むが口の中の火事は収まりそうになかった。

 新しい年が始まり、正月休みも終わった。新年会がメジロ押しの中、業務部全体の新年会が行われる事になった。幹事をしている樹里から出欠を訊ねられ、宏美は思わず欠席と答えた。業務全体の飲み会であれば部長である田牧が必ず出席する。今はまだ職場以外で田牧と会うのは避けたかった。ようやく田牧のいない時間が身体に馴染みつつあるのだ。アルコール依存症の治療ではよくあるらしいが、アルコールが身体から抜けかけてきたからと安心してつい一杯飲んだ事で元に戻ってしまう。今の宏美はまさにその状態だった。今、田牧と同じ場所で飲み会なんかに行ったら、せっかく落ち着きかけた気持ちがまた波立ってしまう。
「え~、中川さん欠席なんですか?」
 樹里は口を尖らせる。
「このところ体調が悪くて。ごめんなさいね」
 苦しい言い訳をしながら宏美は両手を合わせた。
「飲みすぎ? あ、もしかして悪阻とか!」
「ば~か。そんな訳ないでしょう。胃よ、胃」
 樹里の軽口に宏美は苦笑いした。それはあながち嘘ではない。秋からこっち、しょっちゅう胃は痛い。勿論ストレスから来る神経性胃炎だ。その原因は田牧の他には考えられない。
 新年会は週末だった。その日、宏美は定時に職場を出た。同僚達は六時にオフィスを出発すると言う事で、ほとんどが残っている。田牧はまだ会議から戻っていないらしく、オフィスに姿は無かった。
 宏美は同僚達に手を振るとオフィスを出た。このままシャンティに行こうかと思ったが、部の新年会をサボって一人他の場所で食事しているところを万が一誰かに見られたら、さすがに体裁が悪い。仕方なく今日はマンションに帰ることにした。
 マンションの近くのスーパーで軽く買い物をして、自分の部屋に戻る。一人用の土鍋で手早く鍋焼きウドンを作り、テレビを見ながらの食事を済ませる。
 テレビの音が空々しく響く。少しも面白くなかった。ふと電話の方を見る。
「そうだ……」
 宏美は電話の着信履歴をプリントアウトしてみた。普段、固定電話にかかってくる相手は実家くらいなのだが、リストの一番上には見た事のない携帯電話の番号が表示されていた。
 慎の電話だ。宏美は携帯電話のアドレス帳を開け、シャンティの電話番号を出してみた。
「お店の電話じゃないんだ……」
 宏美は少し脈が速くなるのを感じた。しばらく躊躇した後、その番号を自分のアドレス帳に登録した。
 この番号に電話したら慎が出るのだろうか。壁の時計を見ると、まだ八時過ぎだった。営業時間の真っ只中だろう。あの真面目な慎が携帯電話に出るとは思えない。それに出てこられたとしても、話すこともないのだ。
「……」
 宏美の視線はしばらくその番号に釘付けになっていたが、親指がついっと動き、通話ボタンを押した。
 しばらく空白の時間があり、留守番電話サービスに繋がったことを自動音声が告げる。
「……中川です」
 宏美は名乗ってから迷った。何をしているのだろう、私は。
「家の電話の履歴チェックしていて、この番号見つけて、誰だったかなって思って確認の電話させてもらいました。よく考えたら、慎さんですよね? すみません」
 行き当たりばったりの言い訳をしどろもどろに告げる。
「またお店行きます。……じゃあ、失礼します」
 宏美は電話を切った。心臓が大きく鳴っているのがわかる。
「なにをやってるんだ、私は……」
 携帯電話を机の上に置くと宏美は両手で頬を押さえた。なんでこんなに頬が熱いのだろうか。なんでこんなに喉が渇くのだろうか。なんでこんなに……。
 宏美は水に濡れた犬のようにぶるぶると頭を振ると、勢いよく立ち上がった。
「お風呂入って寝よ」

 翌日は土曜日だと言うのに平日と同じような時間に目が覚めてしまった。たっぷり睡眠を取ったからだろう。とりあえず起きだして顔を洗う。鏡に自分の顔を映してみる。よく寝たからか、いつもよりもふっくらして見える。一時はひどく疲れた顔をしていたが、このところ少しマシなようにも思う。気分的に立ち直りかけてきたからかもしれない。
 宏美は洗面所から出るとパジャマを脱ぎ、普段着に着替えた。そうだ今日は部屋の掃除をしよう。年末には一応大掃除をしたが、あれから真面目に掃除をしていない。寒いけど窓を開けて、空気を入れ替えよう。そうしたらもっと新鮮な気分になるに違いない。何もかも洗い流してさっぱりしたい。
 そうだ、そしてシャンティに行って昼ご飯を食べよう。慎を横目で眺めながら、原田と他愛ない話をして、気楽に過ごそう。
 ベランダの扉を開け放った。部屋の中の温かい空気が一気に流れ出し、代わりに冷たい冬の空気が入り込む。宏美は思わず身震いしたが、腕まくりをした。
 ベッドを整え、テレビや机の上の埃を払い、掃除機をかけ、洗濯物を干す。一時間もすると部屋の中はこざっぱりした印象になった。
 窓を閉め、エアコンのスイッチを入れる。微かな作動音と共に、温風が吹き出し始めた。
 時計を見るとまだ九時になったところだ。シャンティに行くには早すぎる。お茶でも飲んで一服してもまだ時間は余りそうだった。 
 インターホンがなった。
「?」
 宅急便か何かだろうか。宏美はインターホンの通話ボタンを押した。
「はい?」
「……僕だけど」
 聞き覚えのある声だった。その声が耳に聞こえた途端、宏美の心臓は締め付けられる。田牧の声だ。
「……どうしたの」
 搾り出すような声しか出ない。さっきまであれほど爽やかな気分だったのに、一気に頭が混乱する。
「どうしたのって……昨日、来なかっただろ?」
 動悸が上がる。息苦しかった。田牧の声を聞くだけでこれほど苦しい気分になるのに、顔を直接見るなんて耐えられない。帰ってもらおう。そう思うのに、身体は言う事を聞かない。フラフラと糸で繰られるように玄関へと向かってしまう。手が震えながらロックに伸びる。開けてはいけない。開けてはいけない。開けてはいけない。心が叫ぶのを無視して、手はロックを回していた。重い金属音がして、ドアノブが回る。
 ゆっくりと扉が開き、田牧の姿が見えた。
「だめ」
 宏美はノブを握り、扉を閉めようとした。それより一瞬早く、田牧の足が扉の隙間に差し込まれた。
「なんで?」
 扉の向こうから田牧の顔が半分だけ見える。
「やっぱりだめ、帰って。もう、いいから」
 宏美は低い声でそう言うと、ノブを思い切り引く。だが田牧の足が邪魔をして扉はそれ以上動かない。
「もういいって、なんだよ、それ」
 田牧が強い力で扉を引いた。宏美もノブを引き返したが、田牧の方が力は断然強い。あっさりと扉は開け放たれ、田牧が中に入ってきた。
「帰って。上がらないで」
 宏美はうつむいたまま田牧の胸を両手で押した。このまま押し出したかった。その手を田牧は握るとぐいっと抱き寄せる。
「だめだって!」
 宏美は叫んで田牧の腕から逃れた。田牧は驚いたような顔でまじまじと宏美を見つめている。
「お願いだから、帰って。もう来ないで」
「だから、どうして」
 田牧の目が僅かに細くなる。
「このまま何もなかったことにしましょう。もういいでしょ」
 田牧は小さく首をかしげた。鋭い視線を宏美に投げかける。
「理由もわからずそれはないな。上がるよ」
「ダメだって!」
 宏美は田牧を押し留めようとしたが、田牧は強引に靴を脱ぐとずかずかと上がりこんできた。
 居間に入るといつものソファーに腰をかけた。
「ダメだって言ったでしょ! 出てって!」
 宏美は思わず怒鳴った。田牧が手招きして、自分の隣をポンポンと叩く。ここに座れということらしい。宏美はそれには応じず、キッチンの流しにもたれた。
 田牧は呆れたような顔で小さく溜息をついた。しょうがないヤツだとでも言いた気だ。
「昨日の飲み会欠席しただろ。体調不良だって聞いたから、心配になって来たんだよ。最近顔色も悪かったし」
 誰のせいだ、誰の。宏美はそう叫びたくなるのを必死で我慢した。
「家の方も落ち着いたし、やっと元の生活に戻れた」
 元の生活? 元の生活って一体なんなの? 宏美は心の中で呟く。このままでは自分の中の何かが壊れそうだった。自分の肩を抱きしめる。
 田牧はじっと宏美を見つめていた。
「今まで通りだ」
「だから、もういいのよ」
 宏美は田牧の言葉を遮った。
「もういいの。別れましょう。奥さんの怪我、丁度いい機会だったと思うわ」
 堰を切ったように言葉が溢れてくる。
「貴方はどうだったか知らないけど、辛かった。本当にこの何ヶ月か、辛かったのよ。貴方に家族がいる事はわかってた。わかって付き合ってた。割り切ってたつもりだった。でもどうしようもないくらい辛かったのよ」
 アイシテル? まさか、そんな事を思っているはずがない。なのに何故ぐるぐると胸の中を駆け巡るのか。アイシテル。嘘だ。そんな言葉は口が裂けても言いたくなかった。
「宏美?」
「私がどれだけ苦しんだって、何も変わらない。私の手元には何もない。貴方は家族を捨てる気なんてないもの。所詮遊びだと割り切ってたんでしょ」
「……」
 アイシテル。そう叫べたら、どんなに楽になれるだろう。しかしそれは出来なかった。そう口にした途端、自分の負けを認めることになる。
 宏美の苦しい葛藤をよそに、田牧は苦い表情を浮かべながら呟いた。
「安っぽいドラマみたいな事言うんだな」
「安っぽくて悪かったわね!」
 宏美は思わずかっとなって手元にあった布巾を掴んで田牧に向かって投げつけた。
「どうせその程度にしか思われてないのよ。そんな事わかってる。だからもう別れて! 帰って!」
 宏美は田牧に詰め寄ると腕を掴んで引っ張った。
「落ち着けよ!」
「私が苦しんでいる時に貴方は自分の家庭で幸せごっこしてた。私には手の届かないところで! 私に見せびらかして!」
 ただの火遊びなら、どんなに気が楽だったか。いつの間にか火遊びではなくなっていたのだ。そう、自分だけ。田牧にとっては今も火遊び。男の罪な欲望に自分はいつの間にか焦げ付きそうだった。そして残酷な蜃気楼だけが、目の前に揺らめく。そう、近づけば遠ざかる蜃気楼の楽園。どれだけ追いかけても、絶対に手は届かない。そんな幻に翻弄される自分はなんと惨めなのだろうか。
 ふいに宏美はその場にしゃがみこんだ。涙がこぼれてくる。こんな事を叫びながら取り乱している自分がたまらなくみすぼらしい。
「何を言ってるんだろう、私……」
 両手で顔を覆う。田牧は困惑した表情を浮かべて宏美を見下ろしている。
「それは離婚しろって意味か? 離婚して僕と結婚したいということか?」
 田牧の言葉は不気味なくらい静かだった。重苦しい沈黙が流れる。宏美は袖で涙を拭うと顔を上げた。田牧と目が合う。
「離婚?」
 妙に生々しい現実の匂いのする言葉。宏美は弱々しく頸を横に振った。
「……そんな事、考えてない」
 消え入りそうな声だったが、それは嘘ではなかった。田牧と一緒に過ごす時間には生活臭が感じられないのだ。いや、感じたくないのかもしれない。一部の隙もない田牧の姿が好きなのだ。無防備でだらしなくくつろいでいる田牧を傍で見たいとはこれっぽっちも思わない。そして自分もまた普段着の姿を見られたくない。田牧が自分に求めているものは「女」であり、自分もまた田牧に「男」を求めている。完璧な男女の関係、欲望の結晶……のはずだった。
「ただ、こんな関係続けていても不毛だって。意味ないって。……もう四十なのよ、私。タイムリミットよね、結婚だって出産だって。でも貴方が傍にいたら、私、先に進めない」
 いくら自分が本気になったとしても、二人の関係は何も産み出さない。将来もない。幻に過ぎない。田牧が自分を抱くのは愛なんかではない。それがわかっているのに、甘く淫らな刹那の瞬間が理性を打ち砕く。麻薬のような田牧との交わりが現実を見失わせる。その事実をこの何ヶ月かで思い知らされたのだ。
 田牧は溜息をついた。そして宏美の肩を抱きしめる。
「……だからダメだって」
 身をよじる宏美の耳元で田牧が囁く。
「僕は嫌だよ。宏美を離せないな」
「エゴイスト」
「なんとでも言えよ。別れない」
 宏美は腕の中で抗うが、田牧の腕の力はますます強くなりほどけそうにない。
「どうせ長い事セックスレスの夫婦だ。アイツだってとっくに僕から心は離れてる。好き勝手に遊んでる。どっちが先に離婚を言い出すか、お互いに探ってるようなもんだ」
 田牧の手が宏美の頬を包み込み、いつものように強引に唇を塞ぐ。宏美は必死で顔を背けた。
「貴方の家の話なんか聞きたくない。いまさらそんな事私に聞かせてどうするの? 火遊びなんかやめて、奥さんと仲良くしたらいいじゃない。それでお終い」
 そう、無かった事にすればいい。全て元の鞘に収まれば、それでいいではないか。
「何言ってんだ、お前だって本当は欲しいくせに」
 田牧が低い声でせせら笑う。
「あんなに感じて、よがって、好きなくせに。何、急に純情ぶって、マトモな事言ってんだよ」
 宏美はかっとなり思わず田牧の頬を張った。田牧は一瞬たじろいだが、すばやい動きで宏美の手首を捉え、そのまま押し倒した。
「やめて!」
 もう一発ひっぱたこうとした反対の手もあっさりと掴まれ、床に押し付けられる。振りほどこうとしたが、痛いくらいの力で抑え込まれ身動きがとれない。
「だいたい結婚する気も、子供を持つ気もあるのか? 本気でそんな事思ってんのか? そんな気があるなら所帯持ちと寝るなよ。何をいまさら」
 宏美を見下ろす田牧の瞳には今まで見た事のないような凶暴な光が宿っていた。乱暴に片手で宏美の両手をまとめて押さえ込み、一方の手をセーターの下に差し込んできた。
「!」
 容赦なく乳房を揉みしだかれ、宏美は唇を噛み締めながら呻く。田牧はすかさず首筋に顔を埋めると、強く吸い上げた。宏美の反応を確かめるように何度もきつく唇を押し付ける。
 宏美は必死で抵抗していたが、田牧の唇から身体の中に注ぎ込まれる甘い毒に少しずつ身体が麻痺していくのを止められない。拒絶のすすり泣きはやがていつもの熱い吐息へと変わっていく。
 宏美の身体から力が抜けていくのを確かめると、田牧は本格的に体重をかけながら宏美の身体を貪り食う。蜘蛛の巣にかかった羽虫のようだった。屈辱的な体位を強いられ、体中に蹂躙の痕跡を残される。田牧の欲望に身体の中を激しく粘っこくかき乱され、宏美は我を失った。唇からほとばしる悲鳴ともよがり声とも取れない泣き声を殺そうと宏美は必死で唇を噛みしめた。屈辱と羞恥と、そして倒錯した快感。頭に血が上り意識が飛びそうだ。そんな宏美の様子が田牧の捕食者としての本能をますます煽り立てるようだった。
 うつ伏せにされ背後から貫かれる。田牧は乱暴に宏美の髪を掴むと顔を上げさせた。息を切らしながら耳元で囁く。
「こんな事されて……泣くほど喜んで……欲しいんだろ、言ってみろよ。欲しいって!」
 宏美はくぐもった声をあげながら激しく顔を左右に振った。田牧は宏美の腰を抱え込むと更に動きを強めた。獣の咆哮と生々しく粘つく水音をBGMに、際限なく、容赦なく、抉られ、こすり上げられ、突き上げられる。やがて大きなうねりが宏美の子宮から頭の芯にまで駆け上り、宏美は身体をのけぞらせ、震わせながら、果てた……。

5に続く
 
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