丘を越えて~高遠響と申します~

ようおこし!まあ、あがんなはれ。仕事、趣味、子供、短編小説、なんでもありまっせ。好きなモン読んどくなはれ。

「友達」「万獣こわい」 を観た!

2014年08月17日 | レビュウ
NACプロ大阪オフィス主催 NAC夏祭り創業50周年記念公演「友達」
脚色・演出 石川一郎
出演 鳥居香奈 安永稔 藤野つや子 依藤まさ子 中西美由紀 あきみちよ としこ 橋本のぞみ 藤枝優希 ひら桃子 宍戸佑輔 蓮華 亀田妙子 寺田有亨 島惠子 加藤幸子

 都会のマンションに一人暮らす若い女の元に、九人の怪しい「家族」が突然来訪する。一見紳士然とした穏やかで理屈っぽい父・優しく明るそうな母・なにやらエロい長女・手癖の悪い前科者の次女・素行の悪そうな三女・誠実そうで清楚な四女・可愛いけれど癖のありそうな五女・少年のくせに妙にオヤジっぽい長男・ことわざ引用が好きな祖母、全く赤の他人にも関わらず、この九人はいきなり女の部屋に上がり込み、女が怒ろうが泣こうがおかまいなしに当然のように同居を決め込む。「一人でいるのは良くない。孤独は良くない。あなたを助けるためにやってきた」その理由だけを振りかざし……。最初はこの奇妙な九人をなんとか追い出そうとしていた女だったが、次第にあきらめ、馴らされ、受け入れざるを得ない心境になってくる。
 しかし些細な事から女が逃亡を図っているとみなされ、女は自室の中でさらに檻に監禁される。果てしなく続く監禁生活に女の神経は徐々に蝕まれていき、やがては檻の中で息絶える。「わたしたちは『世間』のようなもの。逆らわなければ死なずに済んだものを……」そして、奇妙な家族は女の部屋を出ていく。次の迷い子を探すため……。


NACプロさん主催 NAC夏祭り創業50周年記念公演「友達」を観て参りました。よく朝ドラなんかのエキストラの俳優さんを出しておられるプロダクションですな。ここの看板女優さんは「ごちそうさん」にも出演しておられました。ひょんなことからお友達になりましたNAC所属の子役さん(っていってもうちのチビ子と同い年の中学生ですが)が出演されるというので、N●K夏公演のチケットと物々交換をした次第であります。
 なかなか興味深い舞台でございましたよx。N●Kとは全く違ったテイストで、ドがつくほどのストレートプレイ、それも阿部公房の不条理劇と来たもんだ。中ホールくらいのサイズの劇場で、俳優さんの所作がほん近くで観ることが出来まして、ほんでもって内容が内容でございましょう。なんですね、昔時々足を運んだ小劇場、扇町スクゥエアとかの空気を思い出しました。
 そして15名の出演者のうち子役は3名。その中でチビ子のお友達は長男を演じておられました。大人との絡みも多く、そしてややこしい長台詞ときたもんだ。観ているこっちがドキドキしましたが、なかなかどうして、堂々と演じておられました。なんでも大衆演劇が大好きで、大衆演劇の舞台に立った経験があるとのことで、小柄な男の子なのですがとても存在感が大きかったです。いやぁ、すごいね。チビ子と二人で「……上手いね、彼」と感心しておりました。ストレートの経験が少ないチビ子にはとてもよい刺激になったようでした。

 さて、感想はあとでまとめて。

 その日は帰宅してから、WOWOWで放送していました「万獣こわい」という芝居も観まして、演劇三昧でございました。ちなみに「万獣こわい」はクドカンこと宮藤官九郎脚本、河原雅彦演出、「ねずみの三銃士」古田荒太・生瀬勝久・池田成志・小松和重・小池栄子・夏帆という、とんでもない怪優が名を連ねたこちらも一種の不条理劇かつホラーであります万獣こわいHP
 
 喫茶店の開業準備に追われる夫婦(生瀬・小池)の元へ一人の女子中学生が転がり込んでくる。トキヨと名乗るその少女は向かいのマンションの一室に家族と共に何年も監禁されており、家族が次々と殺され最後の一人になってしまったから勇気を出して逃げ出したのだという。おびえるトキヨを夫婦は保護する。
 それから七年。喫茶店経営が行き詰まり、夫婦関係も冷え込んでいる二人の前に成人となったトキヨが現れる。優しい里親とめぐり合い、今は幸せに暮らしているというトキヨを見て安堵する夫婦。トキヨは夫婦に恩返しをしたいといって、喫茶店のアルバイトとして働く事となった。最初のうちはうまく行っていたが、店の売上が合わないことが続き妻はトキヨを疑う。妻とは対照的に夫はトキヨをかばい、二人の間の不協和音が増幅していく。そこにトキヨの里親である綾瀬が現れて夫婦を恫喝し始める。しかし綾瀬を洗脳し支配しているのはトキヨだったのだ……。次第にトキヨの言動はエスカレートしていくが、もう誰にも止める事は出来なかった。暴力と流血が互いを束縛し支配し合う混沌の世界で、惨劇が繰り返されていく……。

 何年かに一度三面記事を賑わせる戦慄の猟奇殺人事件と言えば「……ああ、あれな」と誰もが眉をひそめて呟くことでしょう。九州でもありましたし、最近は尼崎でもありました。外から入り込んだ一人の絶対的支配者によって一族郎党が恐怖と不信によってコントロールされ、ついには互いに殺し合う事態にまで発展していく事件。まさにそういう事件の構図ですよ。
 観ていて途中で気分が悪くなるほどのシチュエーションにも関わらず、目が離せない。そしてなんの救いもない絶望的な終わり方に、心の奥底に潜む黒い翳がざわざわと波立ち始めるのを感じます。……恐ろしい芝居です。ホラーです。でも現実の世界を如実に切り出したポートレートでもあります。

 「友達」と「万獣こわい」はまったく反対の構図を持っています。「友達」は一人が大勢に支配されていく。「万獣こわい」は大勢が一人に支配されていく。しかしながら、浮き彫りにされているのは「人間の弱さ」に違いありません。世間という大勢に流され、丸めこまれ、抗えば殺されてしまう。そこに「自分」は存在しません。そしてまた、たった一人の強烈な個性によって、汚され、染められ、引きずられていく。そこにもやはり「自分」は存在しないのです。
 「自分」それはすなわち「アイデンティティ」であり「自己肯定感」。情報が溢れ、なんでも手に入るこの世の中にあって、自分が自分を見失う。個人の基礎であろう部分の致命的な弱さに、ある種の悪は付け入るのでしょう……。それはもはや悪魔そのもの。そして現代社会にはあちらにもこちらにも悪魔の付け入る隙があるのです……。そしてなにより恐ろしいのは、だれしもが悪魔に喰われるのみならず、悪魔になる可能性もあるということです。誰の心の中にも小さな悪魔が既に住み着いていて、そいつがいつ起きてくるかもしれないというところです。だからこそ人は大きな悪に引きずられる。砂鉄が磁石に吸いつくように。

 もう一つ、共通のキーワードがあります。それは「監禁」。この情報過多の世界に有りながら、監禁下においては一切の情報から遮断され、究極の小さい世界が作り上げられる。その小さい世界こそが当事者にとっては全世界であり、そこに死と生が膝を突き合わせて同居しているのです。小さな空気穴のない閉ざされた空間で「自分」と「死」と「生」が三者懇談のように向き合っている。当たり前ですけど、その三者の間に流れる緊張感たるや、学校の先生と保護者と生徒なんていうものとは比べ物になりませんわ。そんな状況でどれだけの時間、正気を保っていられるでしょうか。……はなはだ自信ありませんな。

 生と死と悪魔が手を取り合って自分を取り囲んでかごめかごめを歌っている……。身の毛もよだつ光景ではありませんか。嗚呼、なんと恐ろしいことでしゃうか……。

 久しぶりに背筋が凍る、いや、腹の底から鈍い震えが上がってくるような、そんな怖い芝居を見せて頂きました。


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