古代日本国成立の物語

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仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)

2017年11月13日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 成務天皇には跡継ぎの皇子がいなかったため、異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊が皇太子となっていた。そして成務天皇の崩御後に仲哀天皇として即位した。しかし、先に書いた通り私は成務天皇と日本武尊は同一人物であると考えるので、景行天皇、成務天皇(日本武尊)、仲哀天皇は直系で系譜をつないでいると言える。
 仲哀天皇が即位した年の11月、天皇は群臣に向かって「自分が二十歳になる前に父の王が亡くなり、魂は白鳥となって天に昇った。それで白鳥を飼うことによって父を偲びたい」と言って諸国に白鳥を献上させる詔をしているが、ここで「父王」という表現が使われている。また、越国から白鳥4羽が献上されようとしたときに蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が「白鳥も焼いてしまったら黒鳥になるだろう」と言ってその白鳥を奪い取ったことに対して、天皇は蒲見別王が先王に対して無礼であることを憎んで兵を送って誅殺した。ここでは「先王」という表現になっている。さらにこの事件に対して時の人が「父(日本武尊のこと)は天であり、兄(仲哀天皇のこと)は君主である。天を侮り、君主に叛けば罪は免れることができない」と言った。日本武尊を「天」と呼んでいる。これらはすべて日本武尊が天皇であったことを意味していると考えられる。

 仲哀天皇は気長足姫尊(おきながらしひめのみこと)を皇后としたが、それより先に叔父である彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘である大中媛(おおなかつひめ)を妃として香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)というふたりの皇子を設けていた。また、来熊田造(くまたのみやつこ)の祖である大酒主(おおさかぬし)の娘である弟媛(おとひめ)との間には誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を設けた。気長足姫尊はのちの神功皇后であるが、なぜ三番目の妻が皇后となったのであろうか。
 これを考えるにあたっては、日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れて死に至ったことが、天皇家が近江勢力に敗北を喫したことを意味している、ということを思い出す必要がある。この近江勢力とは言わずもがな、天日槍の後裔たちが築きあげた大丹波王国に近江の息長勢力を加えた連合勢力である。仲哀天皇は自身の父である日本武尊、すなわち成務天皇がこの連合勢力に敗れたあとに即位したのである。大中媛や弟媛という本来なら皇后にしたい妻がいるにも関わらず気長足姫尊が皇后になったのは、天皇家に勝利して勢いを増したこの連合勢力が自陣の気長足姫尊を送り込んで強引に皇后にさせてしまったのである。大中媛との間にはすでに皇太子候補である香坂皇子と忍熊皇子の兄弟が存在し、弟媛との間にも誉屋別皇子がいたにも関わらず、未だ皇子を生んでいない気長足姫尊が皇后になる理由はそれ以外に考えにくい。要するに連合勢力が実権を握ろうと目論んだのだ。仲哀紀を読んでも天皇と皇后が夫婦である印象が全くと言っていいほど伝わってこないことはそれを裏付けているのではないだろうか。
 仲哀2年、角鹿(敦賀)に行幸して行宮として笥飯宮(けひのみや)を設けたとあるが、これも実際は行宮ではなく、景行天皇が晩年に遷都した高穴穂宮を廃止して笥飯宮に遷都したのではないだろうか。もちろん連合勢力の仕業である。これによって仲哀天皇は完全に実権を失うこととなり、崇神王朝はここで実質的な終焉を迎えたと言ってもいいだろう。もともとこの敦賀の地は書紀において天日槍が渡来後に但馬に拠点を設けるまでに移動したルートにあたっており、大丹波王国が押さえていた要衝の地であったのだ。また、「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」や「天日槍の王国」などで見たとおり、このあと神功皇后に応神天皇が生まれると、連合勢力と敦賀あるいは笥飯(気比)とのゆかりがさらに深まっていくことになるのだ。そういう状況下にあって仲哀天皇は遷都後すぐに紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に行幸しているが、これには皇后を伴っていない。これは明らかに連合勢力からの逃避であろう。こういう様子を見ていると、仲哀天皇と神功皇后が本来の夫婦関係にあったとは到底思えないのだ。現在の和歌山市新在家に徳勒津宮の跡地がある。

 天皇が紀伊国に行幸しているときに熊襲が叛いた。景行天皇の時以来、三度目の反乱である。中央政界が大きく揺れている真っ只中での反乱であるが、このタイミングは偶然であろうか。私は神功皇后が仕組んだのではないかと考えている。崇神王朝が実質的に終焉を迎えようとしている中での有事の勃発はさらに政権の力を弱めることになる。仲哀天皇にとってはまさに内憂外患である。
 天皇は徳勒津宮から船で穴門(山口県)に向かうとともに、敦賀に使いを出して神功皇后に対して穴門で落ち合おうと告げた。天皇は先に豊浦津(とゆらのつ)に到着したが、皇后は敦賀を出て渟田門(ぬたのみなと)に着き、船上で食事をとった。このとき、たくさんの鯛が船の周りに集まって来たので皇后がそこに酒を注いだところ、鯛は酒に酔って浮かんできた。漁師たちはその鯛を得て大いに喜んだ。この話、神武天皇が東征の際に大和に侵攻しようと戦っているときに丹生川の上流で勝敗を占った際の行為とそっくりだ。酒の入った甕を丹生川に沈め、大小の魚が酔ってマキの葉が流れるように浮かび上がってきたら必ずこの国を平定できるだろう、と言って甕を沈めたところ、魚が皆浮かび上がって来たので天皇は大いに喜んだという。神功皇后の行為は神武天皇が行った占いの行為そのものであり、さらにはその結果によって勝利、すなわち仲哀天皇からの政権奪取を暗示するものであった。このあと、仲哀紀および神功皇后紀における皇后の行為において、神に教えを乞うたり、神の教えに従ったり、神に依存する場面が多く出てくる。皇后が神と通じる存在であることをほのめかす意図があるのだろう。

 皇后は約ひと月遅れで豊浦津に着いた。このとき、如意珠(全ての願いが叶う珠)を海中から拾い上げたという。これは山幸彦が失くした針を探し求めて滞在した海神の宮殿から戻るときに海神からもらった潮の満ち引きを自由に扱える潮満玉(しおみつたま)と潮涸玉(しおひのたま)を思い出す。神と通じる存在になったこと合わせて神功皇后がどんどん強くなっていく様子が窺える。その後、穴門に豊浦宮を設けた。しかし、ここからすぐに熊襲征伐に向かったわけではなく、その後この豊浦宮での滞在が6年にも及ぶことになる


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