古代日本国成立の物語

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銅鐸の考察④(銅鐸の分類)

2020年04月08日 | 銅鐸
【銅鐸の分類】
 銅鐸を学ぶにあたっての基本知識として押さえておかなければならないのが、佐原真氏が提唱した銅鐸の分類で、鈕が実用的な吊り手から形骸化した装飾へと変遷していく過程に基づいた型式的な分類である。また難波洋三氏はこの佐原分類をもとにした分類体系を唱え、それが実質的に現在のデファクトスタンダードとなっている。大まかにいうと次のようになる。

1. 菱環鈕(りょうかんちゅう)式 (Ⅰ式)
前3~前2世紀。最も古い形態で、鈕の断面が菱型をしていることから名付けられた。鈕や鐸身に装飾性がほとんど見られない。大きさは20cm程度である。1式と2式があり、1式は寸胴タイプで、2式は裾広がりの形をしている。



2. 外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式 (Ⅱ式)
前2~前1世紀。鐸身の両側にできる鋳造時のバリが装飾として発達した鰭あり、その鰭が鈕の部分まで延びて、鈕の外側に外縁が付いた形状をなす。大きさが50cm程度のものが作られるようになる。1式と2式があり、1式は舞の型持孔が1つで鐸身の型持孔が鐸身の中心に近いところにあり、2式は舞の型持孔が2つで鐸身の型持孔が鐸身の上辺に近いところにある。



3.扁平鈕(へんぺいちゅう)式 (Ⅲ式)
前1世紀~1世紀。鰭と外縁がさらに発達して装飾性が高くなり、鈕の内側に内縁が付くようになる。もともとの鈕であった菱環部が認識できなくなってくる。古段階と新段階があり、菱環鈕式から扁平鈕式の古段階までが石製鋳型によって製作されたもの、新段階以降が土製鋳型によるものとする。



4. 突線鈕(とっせんちゅう)式 (Ⅳ式)
1世紀~3世紀。もっとも新しい形態で、新しいものほど大型化していく。鰭や鈕に突線と呼ばれる立体の線で装飾が施され、さらに外側に飾耳と呼ばれる装飾も付くようになる。この段階になると本来は銅鐸を吊るすための鈕がその役割を果たさなくなり完全に装飾の一部となる。1式から5式の5段階に分けられており、2式以降は、近畿地方でよくみられる「近畿式」と東海地方で多く見られる「三遠式」の2種類に分かれる。



 銅鐸が次第に大型化することに着目した田中琢氏はこの分類をもとに、突線鈕1式までの銅鐸を「聞く銅鐸」、突線鈕2式以降のものを「見る銅鐸」と呼んだ。滋賀県野洲市から出土したものは高さ134.7cm、重量45kgで、現存する最大の銅鐸である。

 銅鐸には多数の同笵関係が知られている。石製鋳型が使われた扁平鈕式古段階までは高い比率で同笵銅鐸が存在し、石製鋳型を何度も補修しながら複数回の鋳造を行っていたことがわかっている。1つの鋳型での製作個数は最大で7個の場合がある。 しかし、この同笵銅鐸も扁平鈕式新段階以降は激減する。これは複数回の使用が難しい土製鋳型に転換したからである。
 同笵の製作というメリットがある石製鋳型をやめて土製鋳型に転換した理由は、文様の鮮明さと、鋳掛けや補刻といった銅鐸そのものへの補修作業の程度から探ることができる。菱環鈕式・外縁付鈕1式の段階では、文様が不鮮明なものが比較的多く、補修として鋳掛けが施された例はわずかに存在するが、補刻の例は存在しない。これは製造不良と認められた場合は再度鋳込みからやり直すことで対応ができるので、わざわざ補修の手間をかけることをしなかったのだ。
 それが外縁付鈕2式の段階になると文様が鮮明となり、鋳掛けや補刻が行われるようになる。それ以前に比べて文様に対するこだわりが出てきたことが要因であろう。そして扁平紐式新段階において、より鮮明な文様を鋳出すために土製鋳型が用いられるようになった。同笵銅鐸の製作という効率性よりも、ひとつひとつの銅鐸の文様に対するこだわりを優先したのだ。土製鋳型への転換によって、次の段階における突線文様による装飾や、さらには大型化への対応も容易になった。


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