2018年7月20日、宮崎での3カ所目の踏査地は新田原古墳群から車で10分ほどのところ、宮崎県西都市にある都萬(つま)神社。日向国二之宮で、祭神は木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)。木花開耶姫命が天孫である瓊々杵尊の妻であることから都萬神社と呼ばれていると言われ、本居宣長以来、この地名「つま」を魏志倭人伝に見える「投馬国」に比定する説があるとのことです。近くには先に行った新田原古墳群や次に行く西都原古墳群などがあり、大きな勢力の拠点であったことは間違いないでしょう。私はこの日向の地が天孫降臨から神武東征へと続く神話の舞台になっていることに少なからず史実性を認めている立場で、その大きな勢力というのが天孫族、すなわち中国大陸から南九州に渡って来た天皇家の祖先一族である、と考えています。この地に木花開耶姫命を祀る神社があることもその傍証ということになります。
一の鳥居。
駐車場が境内の裏側から入ったところにあるので、いったん車を停めてからここまで出てきて撮影。
神橋。
参道左手にある駐車場。右手の道から入ってきました。
今回の車はこれです。向こうには土俵が見えます。
二の鳥居。
社殿。
由緒。
日本清酒発祥の地の碑。
日本書紀にある「時神吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稲、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稲、爲飯嘗之」の記述から、この地が日本清酒発祥の地とされています。「神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)は占いで定めた田を狹名田(さなだ)と名付けた。その田で収穫した稲で天甜酒(あめのたむさけ)を醸造し、渟浪田(ぬなた)の稲で飯を炊き、収穫の新嘗祭で奉納しました」という意味で、ここに出てくる神吾田鹿葦津姫は木花開耶姫命のことです。
千年楠の洞洞木(どうどうぼく)。
神社の説明によると「都萬神社の境内に立ち生える大楠の一部で作られた木洞で慎み・畏まる・通るの意から洞洞木と命名 “夢叶う・幸せ招く・願ひが叶う” の通る木洞」となっています。裏側からこちら側に通り抜けるといいようで、願い事を呟きながら通り抜けてきました。
参拝のあと、車に戻って次の目的地へのルートを確認しようと地図を見ると、都萬神社の境内に大楠の樹があることを見つけたので、もう一度車を降りて社殿左手にあるであろう楠を探してみた。そして見つけのがこれ。
さらに境内の外へまわってみると、、、
樹齢1200年という古木がボロボロになりながらもしっかりと根を張って立っていました。
さて、次は今回の踏査ツアーのメインイベントである西都原古墳群へ向かいます。本当の目的地は西都原古墳群にある西都原考古博物館です。
一の鳥居。
駐車場が境内の裏側から入ったところにあるので、いったん車を停めてからここまで出てきて撮影。
神橋。
参道左手にある駐車場。右手の道から入ってきました。
今回の車はこれです。向こうには土俵が見えます。
二の鳥居。
社殿。
由緒。
日本清酒発祥の地の碑。
日本書紀にある「時神吾田鹿葦津姫、以卜定田、號曰狹名田。以其田稲、釀天甜酒嘗之。又用淳浪田稲、爲飯嘗之」の記述から、この地が日本清酒発祥の地とされています。「神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)は占いで定めた田を狹名田(さなだ)と名付けた。その田で収穫した稲で天甜酒(あめのたむさけ)を醸造し、渟浪田(ぬなた)の稲で飯を炊き、収穫の新嘗祭で奉納しました」という意味で、ここに出てくる神吾田鹿葦津姫は木花開耶姫命のことです。
千年楠の洞洞木(どうどうぼく)。
神社の説明によると「都萬神社の境内に立ち生える大楠の一部で作られた木洞で慎み・畏まる・通るの意から洞洞木と命名 “夢叶う・幸せ招く・願ひが叶う” の通る木洞」となっています。裏側からこちら側に通り抜けるといいようで、願い事を呟きながら通り抜けてきました。
参拝のあと、車に戻って次の目的地へのルートを確認しようと地図を見ると、都萬神社の境内に大楠の樹があることを見つけたので、もう一度車を降りて社殿左手にあるであろう楠を探してみた。そして見つけのがこれ。
さらに境内の外へまわってみると、、、
樹齢1200年という古木がボロボロになりながらもしっかりと根を張って立っていました。
さて、次は今回の踏査ツアーのメインイベントである西都原古墳群へ向かいます。本当の目的地は西都原古墳群にある西都原考古博物館です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます