古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

物部氏を妄想する③(物部の分布)

2024年01月03日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する③(物部の分布)

物部氏を考えるにあたって、記紀や先代旧事本紀の記述などを根拠にニギハヤヒの降臨=物部氏の東遷とする説が多く見受けられます。仮にニギハヤヒが神武天皇の東征に先立って降臨して大和を治めていた(日本書紀)、あるいは神武天皇を追ってやってきた(古事記)、ということが史実であったとすれば、それは3世紀よりも前のことだと思われます。一方で、物部氏のウジ名である「物部」の由来において、「物」が意味するものについては諸説あるものの、「部」については5世紀末あるいは6世紀初めに成立した部民制に基づくものであるとすることは通説になっているように思います。

このあと見ていくように、3世紀まで大和を治めていた一族がヤマト王権の配下に入り、やがて物部の呼称を得て勢力を拡大し、おおむね10世紀までに全国各地に物部の存在が確認される状況になります。その間、6世紀末に仏教の受容を巡る蘇我氏との抗争(丁未の乱)に敗れて本宗家が滅亡するという事態があったにもかかわらず、です

はたして、3世紀よりも前に大和へ東遷してきた集団が5〜6世紀に物部氏と呼ばれ、6世紀末に本宗家滅亡という苦境に陥りながらも、10世紀初めには全国各地におよぶほどの勢力拡大を成し遂げたのでしょうか。たしかに、本宗家が滅んだ後、傍系の物部麻呂が壬申の乱後に石上の姓を受け、石上朝臣として左大臣まで昇りつめて復権を果たしましたが、中央の物部氏が勢力を拡大した結果として全国に物部氏を配置する、あるいは全国の物部氏を配下に置くようになったとすれば、それは天皇家に匹敵する、もしくはそれ以上の権力を握っていたことになり、さすがにそれは困難であると考えます。それでは、なぜ物部氏が全国各地に存在することになったのか、それを考えていくことにします。

続きはこちら→物部氏を妄想する③(物部の分布)


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