【銅鐸の出現と分布】
国立歴史民俗博物館が発行する「歴博」の第121号の「銅鐸の世界」には「中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである」とある。この銅鈴は朝鮮式小銅鐸と呼ばれ、弥生時代中期の前半頃に日本に伝わったと考えられている。日本ではその朝鮮式小銅鐸を模して小さな形を維持し続けた銅鐸と、その後に大型化や文様を持つという日本独自の発展をしたいわゆる銅鐸のふたつの系統に分かれていったとされている。前者の小さな銅鐸と後者の中でも小型のものを合わせて「小銅鐸」と呼んでいる。
小銅鐸は、朝鮮式小銅鐸をもとに北部九州で作られ始めた。福岡県嘉麻市馬見の原田(はるだ)遺跡から出た有文小銅鐸は弥生中期前半に比定され、福岡県松本遺跡の小銅鐸の鋳型は共伴土器から弥生前期末から中期初頭とされる。また、大きさは10数センチと少し大きくなるが、熊本県八ノ坪遺跡出土の鋳型や福岡県福津市の勝浦高原遺跡から出た鋳型はいずれも弥生時代中期前半とされる。小銅鐸は北部九州から関東地方まで広く分布しているが、東へ行くほど新しくなるようで、千葉県袖ヶ浦市の水神下遺跡から出た小銅鐸は古墳時代前期中葉、栃木県小山市田間西裏出土のものは弥生時代後期~古墳時代前期とされている。つまり小銅鐸は弥生時代中期前半から古墳時代前期までの期間にわたって存在したことがわかっている。白井久美子氏によれば、2014年12月時点において全国で見つかった57個の小銅鐸のうち、最小のものが3.4センチで最大が14.2センチ、完形で無いものもあるので類推が入るが大きさの平均は約7.3センチである。
一方、その後に大型化が図られる日本式の銅鐸については、出雲の荒神谷遺跡出土の神庭5号銅鐸は菱環鈕式で日本最古とされているが、それよりも新しい時期の外縁付鈕式銅鐸や中広形銅矛が共伴したことから、その製作時期を明確にすることは困難であった。そのような状況で2004年に愛知県清須市と名古屋市にまたがる朝日遺跡から出た銅鐸の鋳型片は大きな意味を持った。この鋳型は鐸身の最上部の高さ3.6㎝、幅3.0㎝の小さな破片であったが、鋳型内面のカーブの度合いから高さが20cmほどの小型銅鐸の鋳型であることが想定され、さらに鋳型に残る文様が最古の横帯文をもつ神庭5号銅鐸にきわめて近いものであることがわかった。そしてこの鋳型は、弥生中期初めの朝日式土器とともに出たこと、弥生前期の土器が皆無であったこと、鋳型に摩耗が見られなかったこと、などから弥生中期初めに製作されたことがわかった。これによって銅鐸の出現期が弥生中期初めという蓋然性が高くなった。中期初めの鋳型とされるものがほかに京都府向日市の鶏冠井(かいで)遺跡や福井県三国町の下屋敷遺跡から出ている。ただし、森田克行氏は、1999年に大阪府茨木市の東奈良遺跡から出た高さ14.5㎝の小銅鐸を型式学的見地や土器との文様比較の面から精緻に研究した結果として、この東奈良銅鐸を菱環鈕式に先行する弥生時代前期にさかのぼる可能性を指摘している。なお、この小銅鐸は白井氏のデータでは14.2㎝、茨木市のデータでは14.4㎝となっている。
九州から関東まで広く分布する小銅鐸が古墳時代前期まで使用される状況にあって、もう一方の銅鐸は弥生中期以降、様式を変化させながら大型化を進めたが、それが極限まで進んだ弥生時代の終わりに姿を消すことになる。その分布については、近畿・中国・四国を中心に西は北部九州までがその範囲になり、一方の東は長野、静岡までに限られる状況である。かつて、銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏という二大文化圏の考え方によって九州に銅鐸はないとされていたが、1980年に佐賀県鳥栖市の安永田遺跡、1982年に福岡市の赤穂ノ浦遺跡、1991年には再び鳥栖市の本行遺跡などから相次いで鋳型が見つかったことから、北部九州でも銅鐸が製作されていたことが明らかとなり、さらには1999年に佐賀県の吉野ケ里遺跡で銅鐸そのものが発見され、二大文化圏の考え方は消滅した。その銅鐸は現在までに500個以上が見つかっている。
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国立歴史民俗博物館が発行する「歴博」の第121号の「銅鐸の世界」には「中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅製品が普及する。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年前(殷代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつける。朝鮮半島には前6世紀ごろ銅鈴が伝来する。司祭者が身体に着け、神懸かりの状態になるのを助けていたようである」とある。この銅鈴は朝鮮式小銅鐸と呼ばれ、弥生時代中期の前半頃に日本に伝わったと考えられている。日本ではその朝鮮式小銅鐸を模して小さな形を維持し続けた銅鐸と、その後に大型化や文様を持つという日本独自の発展をしたいわゆる銅鐸のふたつの系統に分かれていったとされている。前者の小さな銅鐸と後者の中でも小型のものを合わせて「小銅鐸」と呼んでいる。
小銅鐸は、朝鮮式小銅鐸をもとに北部九州で作られ始めた。福岡県嘉麻市馬見の原田(はるだ)遺跡から出た有文小銅鐸は弥生中期前半に比定され、福岡県松本遺跡の小銅鐸の鋳型は共伴土器から弥生前期末から中期初頭とされる。また、大きさは10数センチと少し大きくなるが、熊本県八ノ坪遺跡出土の鋳型や福岡県福津市の勝浦高原遺跡から出た鋳型はいずれも弥生時代中期前半とされる。小銅鐸は北部九州から関東地方まで広く分布しているが、東へ行くほど新しくなるようで、千葉県袖ヶ浦市の水神下遺跡から出た小銅鐸は古墳時代前期中葉、栃木県小山市田間西裏出土のものは弥生時代後期~古墳時代前期とされている。つまり小銅鐸は弥生時代中期前半から古墳時代前期までの期間にわたって存在したことがわかっている。白井久美子氏によれば、2014年12月時点において全国で見つかった57個の小銅鐸のうち、最小のものが3.4センチで最大が14.2センチ、完形で無いものもあるので類推が入るが大きさの平均は約7.3センチである。
一方、その後に大型化が図られる日本式の銅鐸については、出雲の荒神谷遺跡出土の神庭5号銅鐸は菱環鈕式で日本最古とされているが、それよりも新しい時期の外縁付鈕式銅鐸や中広形銅矛が共伴したことから、その製作時期を明確にすることは困難であった。そのような状況で2004年に愛知県清須市と名古屋市にまたがる朝日遺跡から出た銅鐸の鋳型片は大きな意味を持った。この鋳型は鐸身の最上部の高さ3.6㎝、幅3.0㎝の小さな破片であったが、鋳型内面のカーブの度合いから高さが20cmほどの小型銅鐸の鋳型であることが想定され、さらに鋳型に残る文様が最古の横帯文をもつ神庭5号銅鐸にきわめて近いものであることがわかった。そしてこの鋳型は、弥生中期初めの朝日式土器とともに出たこと、弥生前期の土器が皆無であったこと、鋳型に摩耗が見られなかったこと、などから弥生中期初めに製作されたことがわかった。これによって銅鐸の出現期が弥生中期初めという蓋然性が高くなった。中期初めの鋳型とされるものがほかに京都府向日市の鶏冠井(かいで)遺跡や福井県三国町の下屋敷遺跡から出ている。ただし、森田克行氏は、1999年に大阪府茨木市の東奈良遺跡から出た高さ14.5㎝の小銅鐸を型式学的見地や土器との文様比較の面から精緻に研究した結果として、この東奈良銅鐸を菱環鈕式に先行する弥生時代前期にさかのぼる可能性を指摘している。なお、この小銅鐸は白井氏のデータでは14.2㎝、茨木市のデータでは14.4㎝となっている。
九州から関東まで広く分布する小銅鐸が古墳時代前期まで使用される状況にあって、もう一方の銅鐸は弥生中期以降、様式を変化させながら大型化を進めたが、それが極限まで進んだ弥生時代の終わりに姿を消すことになる。その分布については、近畿・中国・四国を中心に西は北部九州までがその範囲になり、一方の東は長野、静岡までに限られる状況である。かつて、銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏という二大文化圏の考え方によって九州に銅鐸はないとされていたが、1980年に佐賀県鳥栖市の安永田遺跡、1982年に福岡市の赤穂ノ浦遺跡、1991年には再び鳥栖市の本行遺跡などから相次いで鋳型が見つかったことから、北部九州でも銅鐸が製作されていたことが明らかとなり、さらには1999年に佐賀県の吉野ケ里遺跡で銅鐸そのものが発見され、二大文化圏の考え方は消滅した。その銅鐸は現在までに500個以上が見つかっている。
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