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古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

宇佐神宮(北九州実地踏査ツアー No.22)

2018年01月21日 | 実地踏査・古代史旅
青の洞門で少し観光気分に浸ったあと、三人はそのまま宇佐神宮を目指した。ここは岡田さんが以前から行きたいと言っていたところ。宇佐神宮は大分県宇佐市にあるのだが、そもそも大分県に来ることはまずないだろうし、来たとしても別府や湯布院という温泉地へいくだけだろうから岡田さんにとっては人生最初で最後の宇佐神宮参拝の機会になったと思う。それは佐々木さんにとっても同じかもしれない。ちなみに私は二度目の参拝である。

宇佐神宮は豊前国一之宮で宇佐八幡とも呼ばれ、全国に約46,000社あるとされる八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮とともに日本三大八幡宮の一つでもある。

表参道。参道の左手に大きな駐車場、右手はお土産屋さんが軒を連ねる商店街。(前回訪問時の写真)


隣接する駐車場に車を停めて歩いた参道の先にある鳥居。


神橋。(前回訪問時の写真)


神橋を渡った先にある大鳥居。


宇佐神宮は上宮と下宮があり、そのいずれにも三神が祀られている。下宮は嵯峨天皇の弘仁年間(810年代)に勅願によって創建され、上宮の分神を祀った。よって「下宮参らにゃ片参り」と云われるそうだ。

下宮へ向かう鳥居。(前回訪問時の写真)


下宮。(前回訪問時の写真)


神社公式サイトによると、祭神は八幡大神(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の宗像三女神)、神功皇后で、それぞれ一之御殿、二之御殿、三之御殿に祀られている。八幡大神は応神天皇の神霊で、欽明天皇の571年に初めて宇佐の地に示顕になったといわれ、725年に現在の地に御殿を造立し、八幡神が祀られることとなった。これが一之御殿の前身であり、これをもって宇佐神宮の創建とされている。

さらに公式サイトを見ると、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと「日本書紀」に記されていることから比売大神は八幡大神が現われる以前からの古い神、地主神として祀られ崇敬されてきたことから、八幡神が祀られた6年後の731年に神託により二之御殿が造立され比売大神が祀られた。さらにその後、神託により三之御殿が823年に建立された、とある。

ちなみに祭神が祀られる御殿は左から順に、一之御殿、二之御殿、三之御殿とならんでいる。すなわち、二之御殿が真ん中にあるということだ。八幡宮の総本社であるのに八幡大神がなぜ真ん中に祀られていないのだろうか。なぜ比売大神は真ん中に祀られて主神の扱い受けているのだろうか。

上宮への参道。(前回訪問時の写真)

上宮は亀山という山の頂上にあるため、この階段を登っていくことになる。作家の高木彬光は宇佐を邪馬台国に、この亀山を卑弥呼の墓に比定している。この亀山は正面からだらだらと階段を登っていくとそれほど高さを感じないが、裏側にある南大門からの階段の傾斜をみると相当な高さを感じる。その高さといい、山の大きさ(直径)といい、径百余歩の塚とは言い難い。

南大門からの階段。登ったところが上宮の境内。(前回訪問時の写真)

前回訪問したときに、わざわざこの階段をいちど下まで降りて撮った写真。実はここから参拝する時にはモノレールで登ることができるのだ。

上宮境内に入る手前の鳥居で宇佐鳥居というらしい。この先の門が西大門でその先に社殿がある。


上宮。手前から一之御殿、二之御殿、三之御殿。国宝です。


二之御殿を正面から。


実は、神社の南にそびえる御許山(おもとやま)の山頂には奥宮として3つの巨石を祀る大元神社がある。この古来の磐座信仰に渡来系の辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んで重ね合わせたと考えられている。つまり、三柱の祭神のなかでも比売大神がもっとも古い神であるので真ん中に祀られているのだ。

上宮本殿前にある遥拝所。(前回訪問時の写真)


遥拝所から眺めた御許山。(前回訪問時の写真)


さて、比売大神が真ん中に祀られている理由がわかったとしても、この比売大神がなぜ宗像三女神であると言えるのか。たしかに、日本書紀神代巻の天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)の場面における第三の一書(あるふみ)には三女神が葦原中国の宇佐嶋に降りたと書いてあるが、それが比売大神であるとは書いていないのだ。日本書紀編纂者が何らかの意図をもって宗像三女神を宇佐に降臨させたことで、その後は比売大神と宗像三女神が一体となったのだろうか。ではその編纂者の意図とは何であったのだろうか。

さらに、比売大神と三女神の関係性が仮にわかったとしても、ここに応神天皇(八幡神)が降臨した理由がよくわからない。誰かが何らかの目的をもって八幡神を降臨させた(そういう話を創った)のだろうか。何となく神仏習合と関係がありそうと思うが、詳しいことはよくわからない。宇佐神宮は朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされている。6世紀末といえば八幡神が降臨した直後にあたる。

「八幡宇佐宮御託宣集」によると八幡神が降臨した際に「我は誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」と言ったという。このときの神職は大神比義(おおがのひぎ)であり、大神氏は宇佐の地を押さえる豪族でもあった。大神氏は大和の大神氏(おおみわし)に由来する氏族とも言われている。この大神氏がこの宇佐の地で八幡信仰を起こしたのかもしれない。

八幡神が降臨したとされる菱形池。(前回訪問時の写真)


しかし同じく「八幡宇佐宮御託宣集」には筥崎宮の神託を引いて「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、福岡県飯塚市の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であるとしている。筥崎宮の元宮が大分八幡宮であるというのは筥崎宮の由緒から理解できた。しかし、なぜ宇佐神宮の本宮が大分八幡宮でなければならないのだろうか。残念ながら宇佐神宮の由緒はそれに触れていない。大神氏が応神天皇を宇佐に降臨させた571年の時点ですでに大分八幡宮には応神天皇が祀られていたのだろうか。しかし大分八幡宮の創建は726年で、八幡神が宇佐神宮の一之御殿に祀られた翌年である。うーん、わからない。大分八幡宮が神社として創建されたのは726年だが、それ以前より応神天皇ゆかりの地であった、たとえば応神天皇が生まれたのは本当はこの大分八幡宮の地であった、とか。ひとまずそういう仮説としておこう。


さて、上述の参拝ルートは我々一般庶民が参拝する際のルートですが、この宇佐神宮は宇佐八幡宮神託事件でご存知の通り勅祭社である。したがって天皇の使いである勅使が参向する際はこのルートではなく西参道あるいは勅使街道と呼ばれる別の参道を使った。

勅使が参る際に通る勅使街道の鳥居。

ここにはもともと鉄製の鳥居が立っていたが戦時中に没収されて現在は普通の鳥居になっている。

これはその鉄製鳥居がたっていた跡。


この鳥居の先にある呉橋。

呉の国の人が掛けたとされることからついた名。この橋を使うことはできず、通常はこの横にある普通の神橋を渡ることになる。


この宇佐の地は日本書紀の神武東征のくだりにも登場する。神武天皇が日向から東征に出発したあと最初に立ち寄ったのが宇佐である。このとき、宇佐国造である宇佐津彦と宇佐津姫が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)という仮宮を設けて神武天皇一行を歓迎した。

これがその足一騰宮の跡地。



宇佐神宮は神仏習合を早くから取り入れた神社で、境内に神宮寺である弥勒寺を建立し、宇佐八幡宮弥勒寺と呼ばれた。

弥勒寺の跡地。



以上、今回は長い記事となりました。宇佐神宮が神話を含めて様々な経緯を経て存在しており、それが複雑に絡み合っていることから未だ解明されていないことが多く、本当に難解な神社であることから、いろいろと書いてしまいました。
広い境内をゆっくり参拝したので駐車場に向かうときには陽が西に傾き、風が強くなり、気温が急激に下がって来た。寒さのあまり、参道沿いのお店で甘酒(アルコールは入っていません)を買って体を温めました。

さあ、いよいよこのツアーの最終目的地である川部・高森古墳群のある宇佐風土記の丘へ。


以下、おまけ。

昨年6月にひとりで訪ねたときは大分空港から空港バスで宇佐神宮まできた。帰りは路線バスでJR日豊本線の宇佐駅に出て、宇佐駅からソニック号で大分駅へ向かった。

宇佐駅。よく見ると宇佐神宮の上宮をイメージしているように思う。


行先案内。

真ん中のイラストは宇佐神宮の上宮をデフォルメしているのだが、宇佐=USAの連想からアメリカ国旗をイメージしているのは明らか。

宇佐神宮は本当にややこしい。八幡信仰や渡来人についてまだまだ勉強が足りないことを痛感した。それと、神武天皇が東征の際に立ち寄って歓待されたことから、これまで宇佐の勢力は神武勢力と同盟関係にあったと考えていたのだけど、今回の実地踏査で筑紫平野から日田を経て宇佐へ至るルートを走ったことから、この3つの地域は古代から強い関係性があったのではないかと考えるようになってきた。つまり、宇佐が神武の本拠地である日向と関係があったとする自分の仮説を修正したほうがいいのかな、と少し思い始めている。